さらさらと、砂を流すような音が、窓の外から聞こえる。

 少し曇った日光が差し込む部屋は、乱雑に本が詰まれ、ぞんざいにマジックアイテムが
転がされた絨毯と、大量の紙とペンが雑魚寝している机と、それを使いやすい配置だと思
っているその部屋の主がいた。
「……さて、どうしたものか」
 昨日、霊夢に対して啖呵を切った挑戦者―――霧雨魔理沙だった。
 彼女が座っている机の前には、護符や何かの図面、作りかけのスペルカードなどが大量
に転がっている。霊夢の家事を(泣く泣く)やった後、即効で家に帰り、深夜まで試行錯
誤した結果だ。
 外は、昼も過ぎたというのに暗い。元々家を構えているのが森の中だということもある
が、霧雨が降っているから余計に暗く感じる。梅雨の時期を外した、珍しい雨だった。心
地のよい静かな雨音を聞いていると、いい感じに落ち着く。
 魔理沙は、その理想的な状況で方策を練っている状態だった。
 弾幕ごっこは、熱さだけでは勝てない。
 冷静な戦略や、時としてそれを放棄して力勝負に出る判断力もまた重要。現に昨日も、
魔理沙は自分の判断を誤って敗北を喫している。
「……しかし、昨日のあれはもう使えないしな。元々初見で潰すやつだったし。となると
また新しいスペル……あー、でもなぁ。基本的に動き読まれるっぽいよな」
 ごにょごにょと呟く。頭の中身を口に出して整理しているのだが、寝言めいた独り言に
見えてしまう。
「となると……読まれない動きをする、か。しかし私の箒にも限界があるし、なぁ」
 うーん、と大きく伸びをして、椅子へ深く座る。ゆっくりと深呼吸をしながら、魔理沙
はひとまず考えをまとめていく。
「とりあえずスペルは初見で仕留められる奴がないと駄目。動きを変えるにも、少し経っ
たらすぐ読まれるだろうし、となると……あー、くそ。駄目だ。スペルは思いつかんし速
攻で落とせる保証も無い。誘導弾作るにしても私は苦手だしなー。当たる保証ないし」
 ぐるん、と机を蹴って椅子を半回転させると魔理沙はうめいた。
 なんだかどれも通用する気がしない。全て、紙一重で捌かれるような錯覚。その雰囲気
の時点で、魔理沙は霊夢に押されている。
 ―――完全な直線は、逆に不自然。
 ふと、霊夢の言った言葉を思い出す。
「完全な直線は不自然……か。てことは……ああ、そういや。
 ―――あいつ自身はほとんど不規則な動きだよな」
 それこそ、風に流されていく風船のように。
 次に動く方向が全く読めない上に、自在に弾幕をすり抜けていく。それは時として、瞬
間移動されているような錯覚さえ、対峙する相手に覚えさせる。
 それはもう反則に近い技術だ。霊夢くらいにしかできない、というよりそもそも彼女が
どうやって空を飛んでるのかが分からない。
 それが能力だ、と一言でいってしまえば終わりだが、身も蓋もない。他の人妖にしても
魔法やら何やらを使っているわけで、動きの予測は出来る。それを生かせるかどうかはま
た別問題だが。
「……こっちも不規則に動けば、読まれないかな?」
 しかし彼女の箒は基本的に直線運動だ。旋回するにしてもあまり極端な動きは出来ない
し、急停止したりするのも苦手だ。そういう意味では他の人妖連中よりも自由度が低い。
それを補うために速度重視にして飛んでいるのだが―――
 その辺り。裏をかいてみるのはどうか。
「……ふむ、作ってみるか」
 発想の転換。根本を見直してみる。
 魔理沙は傍らに立てかけていた箒を大事そうにしまうと、そのまま部屋を出た。
 長い霧雨がやんだ頃、魔理沙が戻ってきた。どうやら倉庫から色々あさってきたらしく、
両手にあふれんばかりの物品を抱え、それを床に広げる。
 藁束。骨。とねりこの枝。正体不明の金属棒。その他形容しがたい諸々。
 どうやら箒を作るための部品らしい。
「よっしゃ」
 魔理沙は腕まくりをして、さっそく部品と格闘を始めた。



   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 ひと時だけ、雨がやんでいた。
 二日ぶりに見た雲の切れ目から、太陽の光が幕のように差し込んでいる。雲の具合から
見ておそらくまだ雨は続くだろうが、それでもかすかに見える虹を見れば明けるのもそう
遠くはないようにも思われた。
 大きく伸びをして、深呼吸をする。
 こきこきと身体の節々が音を立てて、その感触が気持ちいい。かすかに湿気を含んだ風
が頬を撫でていくのも、不快ではなかった。
 やはり、たまには外に出ないと非常に不健康だ。そう、アリスは思った。
 少なくとも、こんな気分を味わわないのはもったいない。
「研究と実験も一段落したし、しばらくはのんびりしようかしらね」
 傍らで同じように伸びをしていた小さな人の形、上海人形へと語りかけると、彼女もま
た礼儀の正しい栗鼠のような動きで同意する。人形とは思えない、活き活きとした動き。
 彼女に限らず、アリスの手で作られたり、あるいは長い時を経て意思を持つに至った人
形はみんな同じく、個性あふれる性格や豊かな感情を得ているのだ。
 ちなみに、上海と同じくいつもアリスのそばにいるはずの蓬莱人形はまだ寝ている。
 首を攣っていることが多いせいか寝起きがあまりよくない、というのは本人談で、どう
いう関連性があるのかはよく分からない。とりあえず、頭に魔力が行かないからだろうか
とは推測している。
「とりあえず、蓬莱が起きてきたら神社を冷やかしにでも行こうかしらね」
 その神社の巫女には迷惑そうな、当面の方針を決定して再び空を見る。
 相変わらず、きらきらと光が雲に反射して綺麗な―――
『あれ?』
「どうしたの上海―――」
 上海が目を向けている方角へ、同じく視線を当てる。
 雲の切れ目をくぐって何かが飛んで来ている。逆光のせいか真っ黒に見えるが、その形
はどこか皿のようだった。外の世界の本で見た、未確認飛行物体とかいうものだろうか。

 それが、わけのわからない軌道を描いて、わけのわからない速度でこっちに。

「って、ちょっと待ちなさいよ―――――!?」
 とっさの判断で上海をつかんで胸元へ抱え、地面に伏せる。
 その上を、正体不明の物体はすれすれで飛び、

 アリスの屋敷へ激突した。

 すさまじく、形容のしがたい音が耳をつんざく。
 ガラスの割れる音。
 柱がへし折れる音。
 煉瓦が砕け散る音、などなど諸々の破壊音が織り成す、聞いているだけで絶望感を掻き
立てられるような下手くそな合奏が続いて、アリスがいい加減泣きそうになったところで
やっと止まった。
「……なんでよ、もう」
『痛いー……』
「あ、ごめん」
 少し力の入ってしまっていた手を離す。
 上海に怪我はないようで、ひとまず安堵した。
「あ、そうだ、家―――」
 あわてて振り向くと―――
 意識が空の彼方まで吹っ飛んで、大気圏を突破。
 そのまま月あたりにぶつかって跳ね返り、数秒の経過を経てようやく帰還。
 俗に言えばアイキャンフラーイ。
 ある意味でもう現実を認めたくない人間の陥る数秒間の臨死体験一歩手前。
 つまるところ。
 玄関が、木っ端微塵であった。
「あ、ああああああああああ……」
 思わず膝を付いて頭を抱えた。
 しかし、どうやら被害自体は玄関のみで済んだらしく、中から人形たちが何事かとあふ
れるように飛び出してくる。その中には、眠たい目をこすりながら不機嫌そうにしている
蓬莱人形の姿もあった。
「良かった……みんな無事みたいね」
 安堵のため息をついて、なんとか立ち上がる。しかし足元がフラフラだ。精神的に強烈
なブローを喰らっている。
 ―――とりあえず、事態の把握と解決および処刑のために飛び込んできたものを見極め
なくては。
「……一体何なのよ。水平に飛んでくる隕石なんて聞いたこともないし」
 ぶつぶつと恨み言を誰にともなく言いながら、アリスは瓦礫の山、よくわからない物体
と化した玄関へと近づいていく。一歩進むたびに気絶したくなったが、そのたびに上海に
なだめられて何とか持ち直す。
 ……もし隕石だったら、隕鉄の一キロぐらい手に入れないと割に合わないなぁ。
 そんなことを考えながら、瓦礫に埋もれている何かを見た。

「………あ」

『………あ』

「………あたたたた、って、ん?」

 硬直した。

 正体不明の物体に乗っているのは、見慣れた人物だった。

「………………」

『………………』

「………あー、その、ドンマイ」


 アリスは思いっきり本を振りかぶった。



   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



「……なんでまた寝てるんだろうな、私は」
「私が思いっきり殴ったからよ。あんたね、一体全体どうしていつも人……じゃなくて妖
怪ね、この場合。迷惑かけないと気が済まないのかしら」
 アリスと魔理沙は居間へ移っていた。ぎいぎいと苛立たしげに主の意思を代弁している
椅子の上で、彼女の視線はソファで横にされている魔理沙を睨み、たいそう不機嫌そうに
紅茶を飲んでいる。魔理沙がソファに寝かされているのはアリスの殴符「本の角ボンバー
」で再び気絶状態にされたためだ。
 ちなみに、玄関の修繕は人形たちに完全に任せてある。視線を向ければ、どこからか切
り出してきた材木やら手に入れてきた釘やら備え付けてあった金槌やらを、小さな身体で
けなげに扱っている人形たちの姿が見えるはずだ。
 だが、今はそれに和んでいるわけにはいかない。
「おいおい、あれは不可抗力だぜ。新しい箒の実験をしてたんだが、ちょっと……まあほ
んのちょっとなんだが、制御できなくなってな。本当だぜ?」
「箒って……あのあんたが乗ってた、アレ? どこからどう見たって何か怪しいビーム浴
びて突然変異で巨大化したたわしじゃないの」
 と、アリスがソファのそばに転がしていたものに目を向ける。
 それに、魔理沙もつられて視線を向けた。
 ……確かに、穂先で毛羽立った丸い外縁部がたわしっぽい。というかそのものだ。
 これを箒と呼ぶのは、魔界神を最強と呼ぶくらいに無理がある。というか不可能だ。
 無理に難解な表現や証明を使って説明するより、たわしだのアホ毛だのと言う方が早い。
「ああ。たしかにたわしだなぁ」
 だから、笑顔で納得した。
「あのねぇ、あんなのまともに飛ぶわけないでしょ。何考えてるのよ。いくら梅雨時だか
らって頭の中でまできのこを栽培しないでちょうだい」
 間髪いれず容赦なく罵られた。
「あー? ありゃ全方向に推力を発生させられるように工夫した結果だ。そこまで言われ
る筋合いはないぜ。……まあ操作が結構、というかかなりピーキーだけどな」
「あんなのピーキーどころか手綱外した悪魔の妹じゃない。そもそも真っ直ぐ飛べてなか
ったみたいだし、そんなの実戦でまともに使えるわけないでしょ」
 さすがに憮然として反論するが、すぐに強烈な一撃が飛んできた。脾腹の辺りを爽やか
に一突きするような姿が思わず浮かんでしまった。
「何を言う。意外なキワモノが戦場に革新を与えるんだぜ」
「ごっこ遊びに壮大っぽい言葉を持ち出すな。実際キワモノってあんたも認めてるし」
 がちゃん、と乱暴にカップを置いてため息をつくアリス。その表情は硬い、というか怒
っているのがありありと分かる。向けられる視線も敵意たっぷりだ。
 その不機嫌そうな様子に、魔理沙は早々に帰宅する決意を固めた。
 このままいたら何をされるか分からない。
 人形に押し込められるか、それとも新しいスペルの実験にされるか。
 ……どっちにしろ、ヤバいとかヤクいとかそんな表現が似合う。
 埋め合わせは後でするとして、今はほとぼりが冷めるまで逃走するべきだろう。
 そう判断した後は、すばやく行動だ。
「……ま、改良の余地ありってところだな。邪魔したぜ」
「え、あ、ちょっと待ちなさい、玄関壊した責任くらい取っていきなさいよ!!」
 そそくさと巨大なたわしを左脇に抱えて帰ろうとする魔理沙を、アリスは腕をつかんで
引きとめて、

「あ、つ………!」

 魔理沙が上げた声に、手を離してしまった。
 危機感を掻き立てる、押し殺した悲鳴のような声。
 思わず背筋が冷えてしまったのだ。
「ちょ、ちょっと魔理沙?」
「………っ」
 魔理沙が、うずくまるようにして、つかまれた右腕を抱え込んでいる。
 何かを隠そうとしているようにも見えたが、それだけではなさそうだ。
 その目じりに、うっすらと涙が浮かんでいる。
 それを見て、アリスの思考の端に、何かがひらめいた。
 視線が、険しくなった。
「―――ちょっと見せなさい」
「ああ、いや、何でもないぜ。だから」
「いいから!!」
 あまりの剣幕に、魔理沙は身をすくませた。普段聞かない、荒い声。
 その隙に、アリスは彼女の腕を取った。
「あ―――」
 赤黒いあざが、肘から下の半ばほどに出来ている。
 打ち身にしては色が濃いし、何よりあの痛がりようは普通ではない。腕を伸ばさせて診
てみるが、おかしな角度に曲がったりずれたりはしていない。
「……折れてはいないけど、ひびが入ってるみたいね」
 おそらく、玄関で激突したときにやったものだろう。
 伊達に魔法使いを自称しているわけではない。屋敷のあちらこちらには侵入者に発動し
て自動発動する防壁を設置しているし、建材も長持ちするようにと強度上昇の魔法を仕込
んである。
 そんなものに激突すれば、……まあいくら魔理沙でも怪我くらいするだろう。
 あくまで冷静に診断して、それでもふつふつと何かがこみ上げてくる。
 ―――まったく、隠して強がってるんじゃないわよ、馬鹿。
 知らず、アリスは心の中で毒づいた。どうしてそんな風に思ったのか、良くわからなか
ったが、すぐに忘れる。
 次にやるべきことを考え始めたからだ。
「いやまあ、その」
「ちょっと待ってなさい。素人目に見ても、それ放置してたらそのうち本気で折れるわよ。
というかそんなことしたら私が全治一ヶ月にしてやるんだから。
 ……確かこの前作った薬があるから、それ塗って安静にしてればたぶん一日で治るわ」
 ばつの悪そうな顔で弁解しようとする魔理沙を早口で遮る。
「いやしかしだな」
「うるさい。そのまま欠陥品のフライングたわしで帰られて、また怪我でもされたら寝覚
めが悪いわ。今日は大人しく泊まっていきなさい」
「……お、応」
 魔理沙に有無は言えなかった。というより、言い出す気になれなかった。
 アリスが、本気で怒っているからだ。
 ……その理由までは思い当たらなかったが。
 それに、どうせ無理に逆らおうとしてもねじ伏せられてしまうだろう。無数の人形が住
まうこの屋敷の中で、アリスに敵う人妖はほとんどいないからだ。
「上海、蓬莱。手の空いてる人形たちを呼んできて。そこにいる黒白馬鹿をベッドに拘束
するから。場所は私の部屋ね。ああ、それと―――服も脱がせといてちょうだい」
「え、ちょ、おま、待てってそれは!!」
 その言葉に、魔理沙は珍しくあわてた。
 ―――さすがに、服はまずいんじゃないだろうか。その、同性でも。
「他に怪我でもされてたら面倒よ。黙って従いなさい」
「いやしかしいきなりそんなこと言われると身の危険が―――」
 ……ああもう、埒があかない。
 アリスはため息をつくと、あまりこんなことで時間をかけたくないと判断。
 だから魔理沙の言葉をぴしゃりと遮って、
「こんなときくらい素直に従いなさい!! ……心配してるんだから」
 前半は怒鳴るように、後半は呟くように、言った。
 次いで、たぶん少し赤くなっているだろう顔を隠すように背を向ける。
「……あ、うん、分かった。大人しくしてるぜ」
 何故か面食らったような、呆然としたような様子の魔理沙が返事するのを聞いて、アリ
スは無言で部屋を出た。
 はっきり伝えたことが、なんだかこそばゆかった。



   ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 整然とした空間には埃一つ落ちていなかった。
 一言呪文を唱え、壁へかけられた職台に刺さっている蝋燭の芯を指先で弾いて火をつけ
ると、向かって正面、一番大きな棚を空ける。
 普段、あまり使う機会がないとはいえ、入用の薬を丁寧に整理された棚から見つけ出す
のは容易だった。これがもし魔理沙の家であれば三日くらいは費やす必要があるかもしれ
ない。探すより作り直した方が早い、とは本人の弁だ。
「量は……十分ね。これなら全身に塗りたくってもまだお釣りが来るわ」
 中身を確認して、同じく棚に置いてあった薬箱に放り込むとすぐに取って返す。
「お待たせ。……珍しいわね。本当に大人しくしてるなんて」
「だってお前、身ぐるみはがされた挙句にこいつらに厳戒態勢はられてちゃあ、逃げ出す
気も失せるって」
「……それもそうね。上海、蓬莱。武器はしまっていいわよ。使う必要ないから」
『はーい』
 アリスの言葉に従って、魔理沙のすぐそばで待機していた二体は物騒なものをしまった。
 逃げ出そうとしたら本気で処刑するつもりだったのだろうか。……その辺は今度改めて
教育しておく必要があるかも知れない。
 アリスの部屋は、普段研究に使っている書斎(薬を保管していた場所だ)に比べるとが
らんとした印象が強い。
 クローゼットやテーブルなどの家具や調度は一通りそろっているし、壁紙やカーテンも
きちんと工夫して使われているものの、生活感とも言うべき雰囲気が薄い。誰かが住んで
いるという様子が見受けられないのだ。
 基本的に睡眠と着替えにしか使っていないことが、その理由なのかも知れない。普段の
生活における重要性が低いから、そう思えるのだろう。
 そんな中、魔理沙は天蓋付きのベッドでシーツに包まっていた。枕もとには、畳んで置
かれた彼女の服がある。種族はともかくとして同性なのだから恥ずかしがることもないだ
ろうにとアリスは思ったが、あえて口には出さないことにした。話がこじれそうだ。
「とりあえずは腕ね。ほら、出して」
「お、おう」
 にょき、とシーツから手が伸びる。アリスはそれを手にとると、薬箱を開けて件の膏薬
を出した。
 その中身を軽く掬い取って、赤黒く腫れた患部へ塗りつける。
「んぐ……」
「我慢しなさいよ。……すぐ、終わるから」
 痛みに跳ねる魔理沙を軽く押さえて、慎重にすり込んでいく。
 こうして触れると、痛々しさが良くわかる。
 すべすべとした健康的な色の肌に、一箇所だけ膨れ上がって感触の悪い部分がある。な
まじ他が綺麗なだけに、余計際立ってしまっている。
 これだけ酷く腫れていると、触られなくとも痛みに苛まれるだろうに。
 ……どうしてやせ我慢などするのか。
「……もう少し気を使いなさいよ。傷物になったら目も当てられないじゃない」
「ん、何か言ったか?」
「べ、別に」
 ぼそりと、包帯を巻きながら呟いたことを聞き取られ、慌てて否定する。
「ここは、これでいいわね。……さて、他のところも見せてもらおうかしら」
「あー……その、やっぱりどうしても見ないと駄目か……?」
 シーツを胸元まで寄せてもじもじと自分の身体を抱える魔理沙に、アリスはため息をつ
いた。ついで、苦笑する。
「あんたでもそんな可愛げあるのねぇ。明日は嵐かしら」
「……うるさい、ほっとけ」
「まあいいわ。それと、ここまで来たんだから観念しなさい」
「……ん、分かったよ。……変なところ触るなよ?」
 いつもとはまるで違う、ずいぶんとしおらしい声だった。
 その言葉に何を想像したのか、アリスはかすかに顔を赤らめる。
「触らないわよ、馬鹿。ほら、下着上げて……何よこれ、あちこち小さい傷つくって」
「あー、その、箒のテスト飛行がだな」
 ぽりぽりと頭を掻くジェスチャー。困ったように顔を俯かせている。また何か言われる
のか、とでも思ったのだろうか。
「またあのたわしか……何日くらい使ってたのよ」
「二日ぐらいかな。まだ雨が降ってた頃」
 その言葉に、アリスは思いっきりため息をついた。
「……よく風邪引かなかったわね。あの迷信って本当だったのかしら」
「おいおい迷信って何だよ」
 ……馬鹿は風邪を引かない。
「秘密よ」
 あえて口には出さずに、もうかさぶたになっている傷口へあえて薬を塗りこむ。傷跡が
残らないように、との配慮。同性である以上、こういうことには敏感だ。
「あー……冷たくてちょうどいいな。ここのところ蒸し暑かったし」
「……ねえ、一つ聞いていいかしら」
「あ?」
「どうしてこんなになるまでやってたのよ。どうも焦ってるように見えて仕方ないわ」
「……何がだ?」
 何とはなしに聞いたようなアリスの言葉。それに、魔理沙は露骨にとぼける。
 日頃ひねくれているくせに嘘は下手なんだな、とアリスは思った。まあ実際下手だが。
 ……ということは、実際は素直な性格なのかもしれない。
 まあ、その辺りは置いておくとして。その隙を突いて、日頃の恨みとばかりに容赦なく
畳み掛ける。
「何がって、実験も研究もよ。何を研究してるのかは知らないし、どういう実験かは知ら
ないけど。ちょっとあなたらしくないんじゃない?」
「失礼な。私はこれ以上ないくらい私だぜ」
「その私をこれ以上なく知ってるのも私よ。あの巫女とあんたの師匠の悪霊を除けばね。
少なくとも、私の記憶じゃあこんな感じの無茶はしないわね。そうね、何かに焦ってて見
当違いの方向へ進んでるような感じかしら」
 言って、アリスは意地悪そうに笑う。
 悪意は少しで、ほとんどは興味本位、そしてその間にほんの少しの心配。
 そこでどうして自分が心配しなくちゃいけないのよと思わず自分の感情に理性が反駁し
てしまうが、今はそれよりも魔理沙を弄る方がいいだろう、と瞬時に判断していったん封
じる。目の前の楽しみを放置して自問自答で喧嘩しても損だからだ。
「………む」
 畳み掛けられて、魔理沙はほんの少し押し黙ると、
「……まいったな。全部バレてるのか」
 意外と素直に、魔理沙は認めた。
「……まあ、その。一週間以内にかたを付けないといけなくてな」
「ふうん、一週間ね……ちなみにあと何日?」
「四日くらいかな。金曜頃に約束して、土曜は一日こもって研究。後が実験で、合わせて
三日使った」
 アリスは頭痛を覚え、大きくため息をついた。
 ……呆れた。二日間ずっとあの箒に乗っていたのか。
「……普通、最初に乗った時点で間違いに気づくと思うんだけど」
「……」
 魔理沙は答えず、ため息をつく。
 薬を塗り終えたことを告げると、すぐに彼女は寝っ転がった。
 他人のベッドだというのに気安い奴だ。
「まあ」
 魔理沙が、口を開いた。
「焦ってる、っていうのは当たりだな。
 ……正直、どう足掻いても勝てる気がしなくなっててな」
「何の話よ」
 アリスは眉をひそめた。しかし魔理沙は無視して続ける。
「独り言だから聞き流せ。
 ……まあ、あいつ相手だといつものことだから仕方ないんだが。それでもやっぱり勝ち
たいんだよな。届かなかったとしても、近づくことは出来るわけだし」
「…………」
 明瞭に言葉は出していなかったが、アリスは何となく、魔理沙の様子がおかしい理由が
分かったような気がした。
 ―――まあ、当然だろう。相手が悪いのだから、彼女が自分の調子を崩すのも頷ける。
「つーわけで発想の転換を図って新機軸の箒を作ってみたんだが……ま、その辺は周知の
通りだぜ。でも、やり直すにも時間が足りないんじゃないかって思ってな。ちょいとムキ
になっちゃったな………ははは」
 そこで苦笑して、魔理沙は寝転がったまま肩をすくめた。恥ずかしき我が失敗、とでも
伝えたかったのかもしれない。
 そんな様子にアリスも笑って、同じく独り言のように言った。
「……馬鹿ね。何をやっても勝つときは勝つし、負けるときは負けるものよ」
「分かってたんだがなぁ。焦ることもないってのに、どうも夢中になると周りが見えん。
周りが視えなかったら弾は避けられないってのにな」
 そこまで言ってまた笑うと、魔理沙は寝返りを打ってアリスを見た。
 いきなりじっと見つめられ、何事かとアリスは内心焦ったが、彼女の瞳が迷うように動
いているのを見て、今度は首をかしげた。
 ……なんだか今日は珍しいことばかりだ。
 そんなことを考えながら見つめていると、なぜか魔理沙は今度は背を向けるようにして
寝返りを打って、

「―――その、ありがとな。おかげで目が覚めたぜ」

 ……頭の中が真っ白になった。

「え……あ……」
 上手く言葉が出ない。
 なんでこの場所この時期このタイミングでそんなことを言ってのけるのか。
 深呼吸を一つ。どうにか吹き飛んだ思考を取り戻して、返事をする。
「…………そ、そんなお礼を言われるまでもないわよ。あんた相手に貸し一つ作れるのは
大きいし、それに、まあいろいろと面白い話も聞かせてもらったし」
「……はは、まいったな。恥ずかしい話だから内緒にしてくれると助かるんだが。私とア
リスだけの秘密だぜ?」
 照れくさそうに笑いながら、魔理沙がアリスの方に向き直る。
 かすかに頬を染めている彼女の顔を見て、アリスの心臓が跳ねた。
「ひ、秘密って言ったって……別に大したような話でもないでしょ」
「そうでもないんだが。こういう楽屋裏みたいな話は今まで誰にもしたことがないからな。
本当に、アリスが初めてだぜ?」
 まあ、友達だしな、といいながらまた笑う。
 そこでもう、すっかり冷静な思考が風に吹かれて飛んでいってしまった。
 ……いや、なんで、こんな、いきなり。
 こいつにいきなりこんなことを言い出されても、その、困る。
「―――あ、えっと」
 アリスは吹き飛んだ理性を何とかかき集めて、どうにか感情を制御しようと試みる。が、
いかんせん絶対量が足りない。全部が空の彼方に放り出されてしまったかのようだ。
「……ま、まあ確かに友達、だし。……その、知られたくないことなんて誰に、だってあ
るわけだし、えーと……」
 しどろもどろになるのが恥ずかしい。
 どうしてただ単純に『当然よ』といって不敵に笑えないのか。
 そのことを自覚してますます恥ずかしくなり、思わずうつむいてしまった。
 どこかこそばゆい空気を、しばし感じる。
「………」
 どのくらい経っただろうか。
 視線を下ろしたためにかかってきた前髪の隙間から、ちらりと魔理沙を見る、と。
 ―――思いっきり腹抱えて笑いこらえてやがる。

 顔の赤さも心のくすぐったさもわけの分からない感情も、一気に吹き飛んだ。

「ちょっとあんたなんで笑ってるのよっっっ!!」
「いやいや、お前の反応があまりにも面白くてな。たまには言ってみるもんだ」
「……てことは、あんた今までからかってたわねー!!」
「はっはっは、気づくのが遅いてててててこっちは怪我人だぜ!?」
 アリスが完全勝利とばかりに笑っている魔理沙に容赦なく組みついた。
「うるさい珍しく本気で心配してたって言うのに!! いっぺん反省しなさい!!」
「いやでも話したことは全部本当だぜ!? 話半分だけど」
「半分はパチモノじゃないのー!!」
「ま、まてそれは完全に極まって……きゃー!?」
 どこで覚えたのか、ぎりぎりとかなり複雑な関節技をかけるアリス、逃れようと必死で
もがく魔理沙。


 話半分。その実「話のほうが半分」だったということに気づくのは、まだまだ先のこと
になりそうだった。



    ◆ ◇ ◆ ◇ ◆



 久しぶりの青色は、痛いほど鮮烈に映った。
 昨日は雲のすきまから少し見えるだけだった空模様は、すっかり晴れ渡っている。雲ひ
とつない晴天は、焼けつくような爽やかさを伝えている。その中に風が一迅吹くと、音を
立てて森の葉が翡翠色の光を反射して一瞬輝き、揺れた。
 まさに、夏らしい快晴だった。
「おーおー、晴れた晴れた。これなら途中で雨に降られないで済むな」
 アリスの家の前、もうすっかり元の形を取り戻している玄関の外。
 大きく空を仰いで、魔理沙は身体を伸ばした。右腕に巻かれていた包帯はすっかり取れ
て、痛々しい痣は何事もなかったように消え去っている。
「そうね。ちょうどよかったわ」
「何がだ?」
 魔理沙がよく分からないといった顔をする。
 その様子に傍らで何をするでもなく立っていたアリスは、まるで馬鹿にするように苦笑
した。昨日の狼狽振りはどこへやら、すっかり元の調子だった。
「私が送っていくのに、よ。あんたたしか箒ないと飛べないじゃない。それともまたあの
箒に乗ってく気?」
「いやさすがにたわしは遠慮する。……だがこれ以上借りを作ると後が怖いんだが」
 顔を少ししかめて言う魔理沙に、アリスは苦笑した。
「そこまで恩着せがましくないわよ。それにここからあんたの家までは近いけど、森を抜
けていくとなると大変でしょうし」
「さよか……じゃあお願いするぜ」
 魔理沙は笑顔で承諾した。すると、そのままアリスの後ろへと回り込んだ。
 アリスが何事かと振り向く前に、両手を回して背中に抱きつく。
「きゃ!?」
 突然の強い力と柔らかい感触に、思わずのけぞった。
「ちょ、ちょっといきなり何よ!?」
 悲鳴めいた抗議がアリスから飛ぶが、魔理沙はさも当然のように、
「だって、こうしないと私が落ちるだろ。手にぶら下がったら離されるの怖いし」
「…………」
 アリスは何か色々と釈然としないものを感じたが、ここで喧嘩を売っても損だけで得は
ないと判断して、黙って空に飛び上がった。
「なんだよ、遅いなぁ」
「あんたと一緒にしないでよ。このくらいが普通なのよ」
「私の普通とはかけ離れてるぜ?」
「それも普通よ」
 いつもの魔理沙が出す速度に比べれば、それは遊覧飛行めいた遅さだったが、それでも
あまり不満には感じなかった。久しぶりに空からゆっくりと眺める風景は、魔理沙の心を
引くのに十分だったからだ。
「……ま、たまにはいいな」
「その通りよ。あんたは速すぎるんだから」
「そりゃ嫉妬か?」
「違うわよ」
 笑って、アリスが即答した。あんな危なっかしい飛び方、毛頭真似する気などない。
 空を飛ぶ二人の足元を、深い緑色をした地形が流れていく。
 あの全てが森であり、また様々な植物たちだ。当然その中には、魔法薬に使える特殊な
物も数多く自生している。
 その中を面相筆で象ったように茶色い獣道が細く長く枝分かれしてあちこちに走ってい
て、人為的に作られた道は全くない。
 魔法の森と名づけられたとおり、ここは人間の踏み込みづらい場所なのだ。
 アリスが送っていくと提案したのも頷ける。いかに魔理沙がここで住み慣れていたとし
ても、こんな秘境めいた森を歩くのは骨だろう。しかも病み上がりではなおさらだ。
「しかし、どうするかな」
「何が?」
 ふと、魔理沙が漏らした言葉に、アリスは振り向いた。ほとんど密着している状態なの
で、耳元でささやかれているようで背筋が妙にぞわぞわする。
「いや、そのな。研究の。残り四日しかないだろ」
「飛び方に悩んでるんだったら、鳥にでも聞いてみたら? 少なくとも変な箒作るよりは
有益だと思うけど」
「ほっとけ。……まあ、聞けたら聞きたいもんだが」
 うーん、と小さくうなって、魔理沙はまた森を見下ろした。
 魔理沙たちのほんの少し下、森の上空のあちこちで獲物を狙う鳥が飛び回っている。遠
目では判別できないが、虫を追っているようにも見えた。
 そしてその鳥をさらに狙い、大きな鳥が上空でゆっくりと旋回している。翼を大きく広
げ、耽々と自らの下に広がる領域を監視しているのだ。
 首尾よく獲物を捕らえたらしい一羽が、翼で大きく風を叩いて舞い上がる。
「おおう、危ない」
 魔理沙が呟いた通り、狙いを定めていた大鳥が急降下して襲い掛かる。
 しかし、それは空振りに終わった。
 いかなる技か、大きな方が風を巻いて飛び掛ると同時に、小さい方は翼を大きく広げる
と、突然急上昇し、まるで飛び越えるようにかわしていた。
 大きい方が慌てて旋回するが時遅く、獲物を手に入れ、不意の襲撃も鮮やかにかわし、
その鳥はあっという間に飛び去っていた。
「……確かに上手いもんだな。何も考えずにあれだけ飛べ―――」
 はた、と止まった。
 何かが、引っかかって、そして繋がっていく。
(……そうか、自然ってのはそういうことか!?)
 そしてひらめいた。
 気づいた瞬間、一気に頭の中が活性化する。
 まるで身体を差し入れる隙間もない樹海の中から一気に飛び出したような気分。
 同時に、何か蓋をして押さえつけていたようなものが爆発的に広がっていく。
 溢れ出すイメージ、その怒涛の奔流に対して言語化が追いつかない。つまりは明確な思
考と呼ぶには程遠い。全てがあいまいなまま未だ形にはならず、しかし怒涛の如くひらめ
いては消えて、かすかに残ったものが積み重ねられ、やっと明確になっていく。
 その中に、確信があった。

 ―――これならば勝てる、と。

「来た来た来た来たぁーっ!! ……うわわわ落ちる落ちる!?」
「……何やってんのよあんた」
 ガッツポーズを取った拍子に落ちそうになった。おまけにアリスに呆れられた。


 ……まあともあれ。糸口は見つかった。
 あとはそれを手繰り寄せるだけだ―――





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