初めは、とりあえず寝ようと思っていた。

 たいがい悩みの少ない性格ではあるが、それでも煩悶はそれなりに出来る。

 そういう時の最善手は寝ることだ。気分もすっきり、ときたまいい考えも浮かぶ。

 だから、今日もそうしようと思っていた。

 そのあと、何も変わらぬ楽しい日常を過ごそうと呑気に考えていた。

 ――けれども、布団を敷こうと立ち上がった刹那、

 何かあった気がした。ただ、それがよく思い出せない。

 思い出せないが、夢を見ていたようだ。

 その夢で、よくわからない声が、自分の姿をとって私に何かいった気がした。

 それのいうことはあまり理解できない。しづらいといった方が正解か。

 けれども、その声の甘美なこと。

 だから、つい、私は、その声に、身を――




- Dawn of The Phantasm World-


-1-


 ――ふとその日、何だか喜ばしくない気配を感じた。

 蝋燭の、やや薄暗く、ほんのりと暖かい光で照らされた、乱雑に本と魔導具が積まれ書
斎らしい部屋。
 その部屋の主である魔理沙はかすかに眉をしかめて、本に目を通してはそばの紙片に書
き入れるという作業を止めて、顔を上げた。
 机の上に乗っけていた金髪の三つ編みが、首の動きでかすかな音を立てて宙を揺れる。
 その身を飾る、長袖でやや厚みのあるエプロンドレスは、寒さの苦手な魔理沙にとって
必須装備。まだ歳若い、愛嬌をややひねくれ気味に彫刻したような顔に乗っかっている、
普段はかけていない眼鏡は、長時間集中していることの証でもある。集中力が資本の魔法
使いや学者でも、疲れ目には弱いのだ。
 魔理沙は目を閉じて意識を集中させると、とある方角からなにやら不吉な気配を感じた。
「……やれやれ、またか? 霧に春に月に……今度は何だろうな」
 まったく、今年は随分と変事が多いことだ、と魔理沙は今年の出来事をダイジェストに
して脳裏に描く。
 時計を見れば、そろそろ月も登りきる頃。
 冬の季節なのもあってあまり外を出たくないような寒さだが、
「ま、霊夢の所にでも行ってみるか。この時間ならまだ起きてるだろうし、あいつも気付
いてるなら一緒に楽しませてもらおうっと」
 腕を組んで考える間もなく即決。
 本にしおりをはさみ、ペンをしまうと、机のそばに立てかけていた愛用の箒を取って、
とりあえずあるだけの符を引き出しからエプロンドレスのポケットと袖の隠しポケットに。
 そして、暖炉代わりに傍らへ置いていたミニ八卦炉を懐へ突っ込む。
 ……アリスを誘おうかとも考えたが、向こうも魔理沙になかなか負けず劣らずひねくれ
ているので出発が難航しそうだと思い、とりあえず見送ることにした。
 最後にクローゼット(服がものすごい密度で詰め込まれているので判別しづらいが)か
らマフラーと手袋を装備して、魔理沙は雪が降らず、しかし月の光が降る夜の遊覧飛行と
洒落込んだ。
 凍りかけの土に足を踏み入れて、箒にまたがり、清浄な夜気を深呼吸して、魔力を集中
させる。それで、ふわりと箒は宙を舞った。
 体調は最高潮。そのことに満足して、魔理沙は満面の笑みを浮かべて、
 まるで流星のように飛び出していった。


 ――それ自体はいつものことだ。
 何か大きな事件が起きれば霊夢が気付き、それに気付いた魔理沙やら何やらが首を突っ
込んで解決する。
 彼女がわざわざ関わる理由。それは刺激的で楽しいからだという要素が多分に大きい。
流石に欠けた月の時は重大なことだったのでそれなりになりを潜めていたが、それが魔理
沙の本質であることに変わりはない。
 むしろ、彼女が楽しめないことなどない、といってもいい。
 弾幕ごっこであろうと口喧嘩であろうと議論であっても、彼女はその全てを楽しむ。
 だから、今回も起きるであろう何かを楽しみに行くのだ。





ただ、今回は少しだけ、状況が違っていた。









 始め、私は戸惑っていたが、それが開放感であることに気がついた。

 初めて体感する感覚に、私は小さく溜息をついて、心の中で歓声をあげた。

 ――ああ。

 それは、まさに煩悶を全て落とした修行者。なんと晴れやかなことか!!

 ただ、それはまだ片手落ちの段階。大悟に対する小悟といったところだ。

 そう、これからだ。

 まず何をしようか、誰にしようか。

 晴れやかな心と、珍しくテンションの高い思考で考える。

 ふと、そこで慣れ親しんだ感覚に気がついた。

 星の光のように強く、そして真っ直ぐに伝わる魔力の波動。

 魔理沙だ。そう思った時に、胸の内の歓喜はさらに強さを増した。

 そうだ、まず彼女からにしよう。

 誰にも邪魔されないように、誰にも手を出させないようにして、存分に楽しもう。

 ああ、今日は本当に、いい夜になりそうだ――――――――――




 信じられないことに、あの喜ばしくない気配、即ち不吉は神社から巻き起こっていた。
しかもどんどん混沌と威圧の気配を増して、強く深くなっていくのを感じる。
「おいおい、何だってんだ?」
 尋常ならざる事態に、魔理沙は知らず小さな不安を抱く。
 あの霊夢のことだから少なくとも無事ではあるだろうが、さすがにこの禍々しさは洒落
にならない。というかむしろ何処にこんな不吉があったのか。博麗神社にそんな感じの何
かが封印されているとは知らないし、またどこかいい感じに危ない世界への門が開いたと
も思えない。
「うーん、今回は楽しんでいられる状況じゃなさそうかもな」
 困ったような顔をして、それでも魔理沙は神社へと向かう。
 ……先ほど無事であるとは思ったが、一応、彼女なりに霊夢が心配なのだ。
「お」
 箒の速度を上げて、時計の長い針が二回り。そこで神社の境内が見えた。同時に心配は
さらりと流れて消える。
 霊夢だ。石段と鳥居に背を向けて、何かと相対しているかのように立っている。やはり
無事だったようだ。
 ついで、禍々しい気配が遮断される。どうやら結界を張ったらしい。おそらくは、あの
喜ばしくない気配が周囲の妖怪に影響を与えることを考えたのだろう。めずらしく、随分
と段取りがいい。
「こりゃ、私がいなくても平気かな、今回は」
 そんなことを考えて微笑みながら、魔理沙は速度を緩めて鳥居をくぐった。
 とたん、禍々しい気配が鼻をつくように錯覚した。
 ……ああ、前言撤回。こりゃ手伝ったほうが良さそうだ。
「おーい、霊夢――――――――」
 そんなことを考えながら、魔理沙は片手を上げて声をかけ――



 単色の色彩が、境内を侵蝕し尽くした。



 その色彩が黒であることを理解するのは数秒が必要だった。
 飛び石、社、鳥居、ありとあらゆる存在が黒へと染められていった。
 そして、染まらなかったのは月と星のたたずむ空だけだった。
「……、え?」
 ついで、霊夢の姿が見る間に変わっていく。
 古びた炎色の光が、霊夢の姿をみるみる描き、換えていく。
 めでたき紅白は、髪を纏めるリボンから、装束の隅々に至るまで、その全てが艶めく黒
に変化する。
 そして、その背からは、
 燃え上がる蒼い緋色の翼が――――




 そこで、魔理沙はようやく気付いた。
 この気配は神社から現れているのではない。


 ―――彼女。霊夢そのものから溢れているのだ。




「こんばんは、魔理沙。今日は善い夜ね」

 いつもの声、いつもの調子で、眼の前の霊夢『だった』ものは言った。
「霊、夢……?」
 そう、それはいつも通りの霊夢だ。あの気楽で素敵な楽園の巫女だ。けど、どうして、


 ――こんなに恐ろしいのだろう。


「ふふ、どうしたのよ、そんな顔して。
 ――ああ、この格好?
 ちょっと気が向いたから変えてみたんだけど。 イメチェンとかいうんだったっけ?
 ……どう、似合ってるかしら?」
 しゃらんと、妖気――霊気ではない――に包まれ、青みがかった深い紫に変色した髪を
背中に流して、霊夢は柔らかく笑った。魔理沙を、赤い金色の魔的な美しさを持った瞳を
細めて、まるで彼女が恋人であるかのように眺めながら。
 まずい、と魔理沙は悟った。知識でも理性でもなく、もっと深い部分から。
 首筋から背中、そして腰から足へと、酷く冷たい汗が、魔理沙を伝う。
「はっはっは。ああ、似合ってるぜ。似合ってるが……黒は私の色だぜ。
 お前には似合わんし、何よりグレたように見えるから素人にはおすすめしないぜ。私と
しては……いつものめでたい赤白の方が好きだけどな。うん、そうだな、その方がいい。
だから着替えてこいよ。私は自分の家で待ってるから―――」
 どうにかいつも通りの口調で、困ったような笑顔をして応えるが、声が多少震えている
のは否めない。しかも少々矛盾した物言いになってしまった。
 ゆっくりと後ろに下がって、飛び去ろうと――
「せっかちねぇ、もうちょっとゆっくりしてったらどう? 今日の私は機嫌がいいし」
 そう言うと、霊夢はもったいぶるように右腕を持ち上げて、
 何かを投げた。
 到達は一瞬、認識は遅滞。全てを把握するのは発生した一瞬後。
「な……」
 音も立てずに、鳥居が砕け散った。
 同時に、結界の穴が消える。要するに、ここは密室状態となった。
「おいおい、直すのお前だろ……?」
 呆然と、魔理沙が呟いた。ありえない行動と、ありえない攻撃だった。
 なんだ、今の速さは。あれはふだん使っている攻撃用の札だ。そう、相手をのんびりと
追尾したり広範囲に飛んだりする便利な札だ。だが、あんな速度では飛ばない。
 ついでに言えば、霊夢は極度の面倒くさがりだ。わざわざ自分からそれを増やすような
真似など絶対にしない。
「そうね、まあ、気分がいいから問題無し。鼻歌まじりで直すかもね」
 こともなげに霊夢はいうと、今度は袖から一枚の符を取り出す。スペルカードだ。しか
し、それは禍々しい黒に染まり、紅色を以って式を書き入れられている。
「それじゃ、早速始めましょうか、弾幕ごっこ。といっても、本気でやらないとそれなり
に危ないわよ? なにせ、賭けるのはあんたの命なんだから」
 その言葉で、魔理沙の意識は凍った。
 ――こいつ、今何ていった?
 頭が、答えを出すことを拒否している。
「あら、何でだって顔してるわね。決まってるじゃない。私がそうしたいから」
 それを見かねてか、霊夢がくすくすと笑いながら、形の整った顎に指を当てて、ひどく
冷たく、しかし楽しそうに告げる。
 ――おい、待てよ。ちょっと待て。
「なんだ、それ。私が何か悪いことでも……まあ、したかも知れないが。少なくとも命取
られるような真似はするつもりもしたつもりもないぜ」
 とりあえず抗弁してみるが、それが徒労に終わることは明らかだ。
 既に向こうは言語道断の構え。ならば、言葉を尽くすことは魔理沙自身のささやかな期
待だ。これは何かの悪い夢だと、霊夢のたちの悪い冗談だと信じたいのだ。
 だが、それはあくまでも妄想に終わらせられる。
 霊夢が何ら調子を変えることなく、言葉を続けたからだ。
「魔理沙から見れば、ね。
 あ、ところで、人が解かり合えない理由って知ってる? 心が読めないから。心が読め
ないから、価値観も理解できない。自分が美しいと思うものが、他人には醜いと思われる
かもしれない。
 ――だったら、貴方にとっての無罪が、私にとっての有罪にもなるかも知れないわよね。
同じ価値観なんてそうそうないんだから、そういうすれ違いは珍しくないわ。だから、貴
方にとっては何でも無いことでも、私にとっては無量の苦痛、っていうこともあるのよ。
 ――ああ、わたしにとっての唯一の敵はそれだったかしらね」
 どこか冷たい笑顔を浮かべて、霊夢が何かをいっている。
 その意味は、真意は、全くわからない。ただ、


「そう、今、私は――
私に関わる全てを、壊してしまいたいの。全ての、束縛を、ね」
 そういって、霊夢は口元に符を当て、妖艶に微笑んだ。


 ――こいつを倒さなきゃならないと、魔理沙は直感した。


「だから、まずは、














死んでね、魔理沙」












 ――夢獄、『二重黒結界』。


 霊夢が、符を解放する。


 同時に、魔速の札と、狂った結界が世界を押し包んだ。




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