ざあ、と風が揺らいで樹々の葉音を促した。
 その音と、わずかに肌をつついた違和感で、迷い家に住まう式神、八雲 藍は目を覚ま
した。
 ばさっと布団を退けて、寝間着からも着替えずに外へとまろび出る。
 ――やはり、空気が違っていた。
 その出所を探ろうと、藍は飛び立つ、
「藍。今日は出かけちゃ駄目よ? それとちゃんと着替えなさいな」
 直前に自らの主人に制止された。
「ゆ、紫様!?」
 思わず目を丸くして振り向く。そこには、屋根の上でのんびりと月光浴しているスキマ
妖怪こと八雲 紫――幻想郷でも無二の力の持ち主が座っていた。
 ただ、藍は単にそんなことで驚いているのではない。
 ――まさか、紫様が夜中に起きているだなんて。
「こら、今なにか失礼なこと考えたでしょ」
「い、いえ滅相も!!」
 紫がまるで藍の胸の内を見透かしたようなことをいうと、その藍は血相を変えて否定し
た。迂闊に機嫌を損ねるとどうなるか身をもって知りまくっているからである。
「ふうん……ま、いいか」
(……ほ)
 とりあえず考えていた失礼なことについては不問に付されたようで、藍はこっそりと安
堵する。その後で、自分が何をしようとしていたかを思い出した。
「どうして止められるんですか。だって、どう考えてもこの気配は異様ですし、なにより
方向があの巫女の神社――」
「い・い・の。これは起こるべくして起こったこと……といっても、あなたにはまだ解か
らないか。とりあえず、今は我慢して寝なさい。後で理由は話してあげるから」
 あっさりと却下されてしまった。本当に解からないことだらけだ。
 これが起こるべきことである理由は。私になぜ解からないのか。
 ただ、これから何をすべきかは、藍は理解していた。
「……解かりました。その代わり、ちゃんと話してくださいね? ……この間の説教の時
みたいに、熊の木彫りを身代わりにして逃げるのはなしですよ?」
「ふふ、解かってるわよ。私だって茶化していいこととそうでないことの区別はつけてる
んだから。それじゃ、お休みなさいね藍。私もすぐに寝るから」
 すぐに寝るという部分だけを信用して、藍は自分の寝床へと戻っていった。
 掛け布団を整えて潜り込んだ直後、
「……いよいよ始まった、か。さて、どんな風に転ぶのかしらね、この物語」
 そんな独白が、耳に届いた気がした。




 ――霊夢の変容から約半刻前。




 かち、かち、かち、かち。
 秒針がゆっくりと進むのを眺めながら、湯呑みの茶をすする。
 あと三十分もすれば、日付が変わる。
 掃除、水垢離、祈祷、妖怪退治、後は湯浴みか。とりあえず、必要なことはもう全て終
わっている。特に変わったことはない。
 ――いや、一つある。来客がなかったことだ。
 いつもは結構賑やかになるほどやってくるものだが、ここの所はほとんど来ていない。
冬の寒さが足を遠のかせるのか、他の原因があるかどうかはわからない。
 ――まあ、そういう時もあるだろう。
 そう思って、特に寂しさなど感じることもなく、霊夢はこたつに座って茶を楽しむのだ
が――。
 実は、あまりお茶の味がわからなかったりする。
 ついでにいえば、いつもならばとっくに寝ているのだが、最近は日付の変わるぎりぎり
まで起きていることが多い。最近、寒いせいか寝つきが少し悪くなったのもあるが、
「……ふう」
 一番の理由は、何となく物憂げになってしまうことだ。お茶が楽しめないのもそれだ。
 いつも気楽に楽しく生きている巫女さんにしては、鬼の霍乱も裸足で逃げ出すほど珍し
いことである。
 そう、一番幻想郷の住人たちがが静まる頃であろう(うるさい奴もいるが)この時刻。
そんなとき、霊夢は自分に違和感を感じてしまうようになった。
 ――始めは、心の奥から来る、小さな小さなざわめきのようなものだった。
 風邪でも引いたのだろうかと、その日は少し食事を贅沢にして体を温めて寝た。翌日は
非常に元気だったが、あの時刻、再びざわめく。
 ――それが、じわじわと、ゆっくり、しかし確実に大きく。
 まるで打ち寄せるほど大きくなる波のように、それは明確な姿を示してくる。
 その正体がよくわからない。だから、霊夢は首を傾げて、適度に体を動かしたり眠った
りするしかできなかった。
 ――それが、不安なのだと知るのは、さらにその後のことだった。
 何が不安なのか。なぜ不安なのか。それが皆目見当がつかない。
「……」
 目を伏せるようにして再び溜息をつくと、湯呑みに残った最後のお茶を飲み干す。
 ――今日はもう寝よう。そうすれば、何かいい感じに閃いたりしてすっきりするだろう。
 そんなことを思い、今日は布団を敷いて寝てしまおうと――――

 そこで、とんとんと、障子を軽く叩くような音がした。
「あれ、どちらさま? この時間は妖怪でも人間でもお帰り願うけど」
 かすかに眉をひそめて、霊夢は障子へと歩き出した。
 この時間、来客があることなどほとんどない。珍しいこともあるものだ。
 そんなことを考えて、障子をすっと開いて――


「こんばんは。こんなのいかが?」
 眼の前に、知らない顔の妖怪。
 その指先が、霊夢の額を軽く突く。
「――はえ?」
 それで、呆気なく意識が眠りについてしまった。










「……つまんないなー。こんなあっさりかかっちゃうなんて」
 畳に転がって寝こけている巫女を見ながら、幼さを残した妖怪少女はどこか困ったよう
に呟いた。その表情は悪戯が成功した喜びより、困惑の表情が強い。
「博麗の巫女は私なんかじゃ絶対にかてっこないって聞いてたのに……なんだかなあ」
 一人で誰に聞かせるでもなく語りながら、その妖怪少女は腕を組んで首を傾げる。その
動きにあわせて、ひらひらと一枚布で作ったような黒いドレスがたなびいたりしわを作っ
たりする。
 この妖怪、実を言えばほんの最近に産まれたばかりである。だから、霊夢がその顔を知
らないのも当然といえば当然である。名前もまだない。
 その力は、魔を差す程度の能力。『魔が差した』とかいう、あれである。
 人の心にほんの少し干渉して、考えを悪い方へと向ける。つまり彼女は『魔が差した』、
の魔そのものが具現化した妖怪である。
 その力は、大して害を与えることもなく、また弾幕ごっこの役にも立たないことから、
実は彼女は大した妖怪ではなかったりする。つまり、せいぜい人を困らせたりする程度の
迷惑さである。
 だから、今回もちょっとばかりちょっかいを出してからかう程度だったのだが……。
「まあ、かかったのはかかったんだし、ちょっと楽しませてもらおっと」
 一人で完結すると、少女は巫女の傍らへと座り、その寝顔をじっと見つめる。
 さて、起き上がってから彼女はどんなことをするのだろうか――――










気がつけば、随分と真っ暗な世界にいた。
何事だろうと思い返す。それで、あの随分と子供っぽい妖怪のことを思い出す。何かさ
れたようだ。
「もう、うかつね」
 自分自身に不平を呟くと、とりあえず腕を組んでどうしようか考える。
 夜雀のように鳥目になるでもなく、宵闇の妖怪のように闇で包むでもなく、はっきりと
はるか向こうまで見通せるが真っ暗な世界だというのは何となくわかった。
「うーん」
 首を傾げる。それで、なんだか体がふわふわして落ち着かないことに気がついた。
「あ、夢の中ってやつ? これ」
 そういえば何となく頭もぼおっとして、いまいちまとまりがない。どうやらあの妖怪は
夢を見せる類のものらしい。
「いったい何するつもりなのかしらね……」
 何も見えているようで見えない天井(あるいは空)を見上げて、霊夢は自問する。
 だが、
「……やだ」
 そんな時に限って、胸のざわめきが起き出す。
「もう、こんな時に」
 はあ、と溜息をついて、頭を掻く。まったく、我ながらに困った心だ。ちょっと暗い程
度で不安を感じるなんて。
「夢ならもうちょっとましな夢にしなさいよね。こちとら悩み相談が欲しいんだから」
 そんなどうでもいいことを口にする。と、
『あら、じゃあ教えて差し上げましょうか?』
 いきなり返事が返ってきた。
「うわっ? ……もう、誰かいるなら言ってよね」
『いやいや、私は望まれないと出て来れないから』
 声の主はそんなことをいいながら、霊夢の前に姿をあらわした。
「……ありゃ?」
 呆気に取られる霊夢。それも無理はない。そこにいるのは自分と瓜二つ、なのだ。
 つまり、二人の同一人物が存在している。つまり矛盾。
「驚かせた? まあ、普通は驚くけど」
「それなりに。世界にそっくりさんは三人程度いるらしいけど」
 笑いながら、霊夢はそうとだけ答える。まあ、自分なら一応大丈夫だろうという算段で、
警戒は全くしない。
「うん、それもそうね。じゃあ、私と貴方との違いはわかるかしら?」
「……うーん」
 そこで、首を傾げる。見た目については全く同じ。性格も話し方を聞いている限りでは
そう違いはない。
 その様子を見かねてか、霊夢が答えを告げた。
「簡単。貴方が欲しいものを私は持ってるの」
「欲しいもの? ……何かあったっけ」
 本気で首を傾げる霊夢に、霊夢は苦笑した。
「あるじゃない。――その胸のざわめきと、それをどうにかする方法」
「あ」
 そこで、霊夢が手をぽんと叩いた。本気で気がつかなかったらしい。
「なんだ、教えてくれるの?」
「勿論。とっても簡単。それはね…………」
 そういって微笑む霊夢は、
 どこか恐ろしいものを深い部分に湛えていた。








 かちり、と時計の針が全て重なり、日付が変わったことを低い響きで知らせる。
 それに合わせるように、むくりと、巫女が起き上がった。
 それをにやにやと見つめる妖怪だったが、どこか様子がおかしいことに気付く。
 その目はまるで宙を舞うように焦点をあわせることなく、どこか呆然としているように
も見えた。
(……ちょっと強く効きすぎたかな?)
 そう思って、かけた術を外そうとして立ち上がる――
 前に、動けなくなった。
 恐ろしいほどひんやりとした声が、耳から背中へと流れ込んだのだ。
「なあんだ、縛られてたんだ、私。そっか、それが怖かったんだ」
 それは、普通に呟いているようにも見受けられる。ただの少女の呑気な声だ。
 ――でも、どうしてそれが死よりも恐ろしいのか。
「ふふふ、なら、壊せばよかったんじゃない」
 そういって、巫女が満面の笑みを浮かべた。
 そして、その部屋へと爆発的に禍々しい風が広がった。
 その光景を見て、妖怪は博麗に手を出したことをはじめて後悔し、その圧倒的な圧力に
気絶した。










 ――そして、日付が変わってから一時間ほど。




 後方に迫る殺気。それを咄嗟にかわすと、再び前方から迫る魔速の札を仰け反るように、
魔理沙が避ける。
 それを最後にして、スペルカードはその役目を終えた。はかない光を放って、境内に舞
い落ちる。
「ふふ、なかなかやるじゃない。楽しめそうね」
 そう言いながら、霊夢はすでに次の符を手に取っていた。
「おいおい、少しは加減してくれよ。こちとら必死なんだぜ。あと早く機嫌直せ」
 冷や汗を拭って、魔理沙は呟く。その衣服には幾つかの擦過傷が見える。
 夢獄『二重黒結界』。それは、通常使う結界をやばい方向へ発展させたものだ。
 結界は互い違いに回転し、札の速度は異常となる。それが、どこから結界を通った札が
出てくるかを予測することを著しく困難にさせる。反射神経と速度に優れた魔理沙でもな
ければ、潜り抜けるのは至難だった。
 魔理沙の方も反撃はしていたが、彼女の纏う妖気が防御結界となっていて、全く傷を与
えられずにいる。自慢のマスタースパークも呆気なく吹き散らされてしまったのだ。これ
ではせいぜい弾消しにしか使えまい。
「さて、じゃあ休憩は終わり。次に往くわね――――― 獄霊『夢想封印 滅』」
 符に込められた妖力が解放される。
 噴き出した力が、圧倒的な速度をもった散弾として魔理沙に襲い掛かった。
「う、わっ!!」
 視界に映るのは一瞬。それを頼りに、全て避け切る。
 と、同時に、そこを狙って再び無差別攻撃。
それを同じようにかわそうと――
そこで、急に札の軌道が、変わった。
全てが、魔理沙の方へ向かう。
「―――――――――――ッ!!」
 咄嗟に切り返して避ける、しかし二の腕を浅くなく掠めていく弾丸。
「ほら、このくらいで死なないでよ、つまんないから………………!!」
 再び放たれる散弾。痛む二の腕を押さえつつ、魔理沙はそれをわずかに動いて避け、
「……見切った!!」
 次の散弾を追尾弾と看破し、神速で跳ね上がる。その速さに、散弾は追尾しきることな
くあさっての方向へ飛び去っていく。
どうやら、指向性と追尾能力自体は大して強くないらしい。
(これなら、いける、か――――――?)
 心の中でそう考えながら、体勢を立て直して次の弾幕に備える。
見た目には恐ろしい弾幕だが、その実以前霊夢が使ってきたものの発展型に過ぎない。
これなら、後はどうにかして攻撃を効くようにすれば――
「あら、やっぱりこの程度じゃ無理かぁ」
 だが、それを見た霊夢はつまらなそうに呟くと、そのスペルカードをあっさり放棄した。
「……?」
 それを怪訝な目で見る魔理沙。
 それに応えるように、霊夢はうっすらと酷薄な、そして艶めく無邪気な笑みを浮かべて、


「じゃあ、レベルアップね。

 ――――――――滅殺、『八方神殺界 火』」


 魔理沙が見たことの無い、五行の『火』が刻まれた符を投げ放ち、


 無量にして大数に至る弾丸を撃ち出した。神すらも殺すであろう、魔弾を。


 それが、わずか一瞬で空間を渡り、瀑布のように魔理沙を覆い尽くす。



 意識よりも早く体が反応する。魔理沙は咄嗟に符を発動させた。




 境内が、燃えるように赤い弾幕と、光の開闢に悲鳴を上げ、




 結界が弾け飛んだ。




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