思うに、人間妖怪問わず、その肉体を突き動かすものの原動力は好奇心であろう。ほん
の少しの興味から無限大に膨れ上がる抗いがたい感情は、やがて彼らを奔走せしめるから
して、このことに間違いはないだろうと、慧音は歴史書をしたためつつ思った。
 物思いをしながら書き物など、仕損じてしまわないだろうかと不安がるものもいるだろ
うが、慧音に限ってそれはない。よしんば間違えたとしても瞬き一つで修繕できる。文字
一つ分の歴史など慧音には飴玉も同然である。

 ちなみに、式を使って自動書記させる方が効率はよかったりする。それをしないのは、
「風情がない」と慧音自身が感じているからである。自らの手で和紙に筆を滑らせる感触
は、こうした筆を生業とする人間には心地良いものである。そうでなければ、面積にして
数千畳を優に超える書をしたためることはできないだろう。

 閑話休題。今は好奇心の話をしていた。

 里から少し離れた庵の一室である。慧音は居間の中央に文机を置き、東側にある障子を
開け放って明かりと風を取り込み、右手側にまっさらな巻物、左手に書き終えた巻物を並
べて、机の上では巻物を広げると白い紙に黒く筆を滑らせていた。

「…………ふむ」

 よどみなく筆を動かしつつ、慧音は横目で西側にある襖―――その奥を見る。こちらも、
部屋の気を流すために開けていて、奥の床の間には桔梗が一輪、細長い花瓶の中で鎮座し
ているのがよく見えた。
 そこから少し視線を手前に持っていくと―――そこには一人の少女の姿。

 流れる銀髪は清水に流した絹のようで、日に照る白い肌は初雪。白子とも見受けられる
が、特有の儚さはあるものの、むしろどこか力強い印象を受ける。実際、彼女は身体が弱
いわけではない。むしろそんじょそこらの人妖では追いつかないほどに強い。
 次いで言えば、その精神性もなかなか太い。千年間も生きていればそりゃ誰でも達観す
るだろう、とは思うが、どこか残した子供っぽさは、彼女の人間性の豊かさを意味してお
り、そしてそれは長い年月による磨耗とは真逆のものである。
 つまるところ―――彼女、藤原妹紅は見識ある者であれば非常に興味深い存在なのであ
る。例えばその不死性であったり、その出自であったり、果ては美しさであったりもする。
そのあたりは彼女も自覚しているようで、里では力を奮うこともないし、声をかけられて
も丁寧に断ったりし、極力目立たぬように―――正確には溶け込むように振舞っている。

 だが、現状、慧音の興味を最も引いている―――つまり好奇心を増幅している事柄は、
それらの要点とは全く違う部分における疑問だった。

「……ふむ」
「ありゃ、どうした。変な顔して。お茶はいったよー」

 後ろ向きに座っていた妹紅が振り向くと、慧音の顔を見るなりそんなことを言った。手
には盆と、その上に急須と湯のみ。彼女が座っている前には火鉢があり、その上には金網
をはさんで薬缶が乗っかっている。湯を沸かしていたのだろう。

「ああいや、少し気になることがあってな」
「へえ、なになに?」

 文机の端に湯飲みを置きつつ、妹紅が聞く。ゆったりと湯飲みを持ち、淹れたての茶を
啜る姿はどうにも様になっている。彼女の出自が良家である、といわれても違和感はない。
というより、実際に彼女は位の高い貴族―――あるいは皇族に近しい身分だったようだ。
伊達に藤原の姓を背負ってはいない。

「そうだな。一つ聞きたいことが……」

 ふと口に出して、慧音は迷った。

 果たしてこれは率直に聞いて失礼に当たらないかどうか、思考の中で演算する。
 例えばそれが何らかの苦痛を与えることなのか。辱めることか。もしくは困惑させるだ
けのことだろうか。慧音も妹紅とはそこそこに長い付き合いだが、分からない部分がない
とは言わない。言うつもりもない。人間とは簡単に理解できるほど安いものではない。
 だが―――この質問に関しては問題あるまい。季節としては少々早いが、いずれ使う予
定であれば聞くに越したことはない。今は秋の終わりだからして―――まあ、問題はある
まい。少なくともこの好奇心を満たす上での不自然ではない。

 では、どのように切り出すか。

 ここは、直球で聞いてみるのが一番だろう、と慧音は判断した。
 いくら隠喩や暗喩、あるいは比喩を駆使して答えを引き出そうと見ても、相手の誤読を
誘うか困惑を誘うか、どちらにしても意図した通りの質問にはなりはすまい。むしろ、無
用な疑念を抱かせることにもなりかねない。妹紅に疑われるのは辛い。彼女は友人だ。

 ―――ここまで、二秒。

「―――聞きたいことが、あるんだが」
「うん。知ってることなら答えるわよ?」

 妹紅の軽やかな承諾に慧音は内心ほっとした。どうやら杞憂に終わりそうだ。
 異性間であればともかく、同姓間であれば問題もないだろう。

「ああ……それでだな」

 そして慧音は、好奇心を原動力に、その疑問を口にした。
 ―――ふと、視線の行方の記憶がよぎる。
 文机で書き物をしていた時、慧音の視線は何処にあったか。
 それは妹紅の背中は肩甲骨へと注がれていた。そこは通常ブラウスやサラシなどに隠れ
ていて素肌など見えないが、いざとなれば炎の羽を生やし、天を縦横無尽に駆け抜けなが
ら炎の嵐を巻き起こすのである。
 そう、疑問はそこだ。そこにある。





「お前、水着はどうしてるんだ?」

「…………はい?」





 時空が停止した―――というのは慧音の主観だが、明らかにその数秒、あるいは数分だ
ろうか。ともかく計測不能の時間単位の間、慧音と妹紅の周囲は静止していた。それが気
まずい沈黙だと悟るにはさらに数秒かかった。
 慌てて、慧音が取り繕おうと筆を置いた。書などしたためている場合ではなかった。

「いやほら、羽生やすじゃないかお前。それで前々から疑問に思っていたが、背中の生地
は燃えたりしないのか? いや多分燃えてるだろうし燃えたな。私が直したから覚えてい
る。それでついさっきふと疑問に思ったことがあってだな。もし水着を着るとして、そう
いった場合はどうするのか、という―――」
「いや落ち着け」

 逆に妹紅に諭された。よほど取り乱していたのだろうか、と慧音は自身を省みて恥じた。
 しかし―――なぜ上手くいかなかったのだろうか。状況も条件も問題なかったというの
に、と改めて考えて直してみるが、最初からベクトルがずれていることには気づかなかっ
た。冬も近いのに普通は水着の話なんかしねーよ、という発想すら出てこない。
 つまり前提条件からしてすでに失敗してるのだが、元々狂っていた予定をさらに狂わさ
れた慧音には振り返る余裕などすでになかった。

「……で、何で水着なんだよ」
「いや。その、なんだ」

 何と聞かれても困る。好奇心とはかたちなき原動力だ。つまり理由などない。強いて言
うならば浪漫だ。だが浪漫も具象には程遠い概念なので説明に足るとは思えなかった。

「……まあ、いいけど。てかあんまり泳がないんだけどね。湖は紅いのがいるから使いづ
らいし、泳げるほど大きな河原もそんなにないし」
「いや、そんなことは問題じゃない」

 問題は水着だ。ビキニだとかセパレートだとかパレオだとか黒猫褌だとかそんな感じの
ものについてだ。言うなればそれは女性の第二の決戦兵器だ。有象無象の男を魅了し悩殺
し篭絡してやまない一種の精神攻撃である。慧音は妹紅のそれがどのようなものかを聞き
たかった―――そう、不死鳥の翼を広げても決して燃えない水着とは、何なのか。
 論点がずれてきている気がするが慧音は気にしなかった。これも好奇心の仕業だった。

「……で、水着か。……水着。……水着、よね?」
「ああ。どうかしたのか?」
「いや、そのさ」

 妹紅は困ったように言いよどみ、視線を伏せている。それがちょうど上目遣いのように
なって慧音の精神を鐘楼の如く揺さぶったが、本人は気づいていない。なるほど、藤原の
娘は目で殺す。恐ろしい。
 しかし、そうやって言い悩む姿の中で、頬が微妙に朱を差しているのは何故だろうか。
 その疑問はすぐに氷解した。

「……いや、ほら。私、人目避けてるじゃない?」
「ああ、そういえばそうだな」

 前述の通りである。
 その後に、妹紅の大胆な告白が続いた。

「だから……泳ぐ時とかって何もつけてないのよ。人目はないし、そもそも水着に使えそ
うな服とか下着とか持ってないし」

 その言葉の直後、慧音の脳内にある種の幻覚が結像して一連の動画として再構成された。
つまるところフラッシュバックめいたひらめきである。






 夏。木漏れ日。セミが鳴き魚が跳ねる清流の中を、一際大きな白い姿が泳いでいる。
 光を跳ね返すその姿は美しく、まるで絹糸を雪のように束ねて流したかのよう。
 白い影が水面に姿をあらわす。ざばぁ、と宝石の如く水の飛沫を散らし、暑い夏の空気
を胸いっぱいに吸い込む姿がある。
 妹紅だ。
 その姿は一糸纏わず―――水の上に、豊かな白い丘が二つ、艶めいて浮かんでいた。





 思はず、慧音はその場に居合はせてゐるカワセミが、とても羨ましくなってゐた。





「…………慧音?」
「―――あ」

 気づけば、妹紅の顔がすぐ近くにあって、思わず仰け反ってしまった。
 どうやら白昼夢を見ていたらしい。
 それにしても―――

「……なあ、妹紅。来年の夏は一緒に泳ごうか」
「え? いいけど、何で突然?」
「何となくだよ」

 そういって慧音は笑い、筆を取り直すと、そっと視線を外に向けた。
 視界を真っ白に染める日の光。
 夏ほど強くはないが、冬ほど冷たくはない。
 境界の日和。


 慧音はそこに、白昼夢の続きを想った。








SS
ENTRANCE
INDEX






inserted by FC2 system