私の隣に一人、非常に奇妙な男がいる。大学の後輩で、非常に地味で寡黙な、現代若者
文化の潮流にさらされている都会人にしては希少種の人間である。
 専攻科目は数学だが恐るべきことに哲学、考古学、神学、文化人類学などにも手を出し、
いずれにおいてもトップの成績を修めている。一日にどれだけ勉強しているのかを一度、
聴いてみたが、二度と聞きたくないような数字が飛んできた。受験生でもここまでしない
ようなスケールだった。何かの強迫観念に突き動かされているという方が正しそうだ。
「体が弱くてね。外に出て遊べない鬱憤を本で晴らしていたらこうなった」
 冗談のような話だが、実際昔は良く体を壊していたらしい。先天的な病によるものだっ
たらしいが、今はこうして普通に歩けているのだから、おそらくその治療は功を奏したの
だろう。彼の思春期全てと青年時代の半分を引き換えにして。
 ごく平凡な自分から見れば、それは大きな欠落に思える。
 事実それは現状の彼の生活態度にも表れていて、指摘できるところはいくらでもあった。
 たとえば―――恋をしたことがない。
 もう少し説明すると好意が理解できない。
 というより、無条件で何かする、ということに意味を見出せないらしい。
「たいていの無意味な活動については、文化という言葉で説明がつく。ただ、恋愛感情に
基づいた行動ほど不可解なものはない」
 そもそも愛されたことがない、と彼は言う。
 母親は彼を捨てて何処かへ消えたらしい。父親はすでに他界していた。
 虚弱だった体質は父のもので、それを疎んでのものだったらしい。
 それでも何とかなったのは、残した遺産の大きさと、生前から父の雇っていた家政婦の
おかげ、だったそうだ。
 衣食住は全て解決していた。唯一つ愛情が欠けていた。
 自分の身に置き換えて考えてみると、あまりの空白の寒さに泣きたくなりそうになる。
「君は感情移入しすぎだ。僕のことで泣く必要はない」
 というより、一度この話を聞いて泣いたことがある。その時の彼は苦笑を浮かべていて、
記憶に残るほど可愛いものだった。普段がずっと仏頂面だったから余計に覚えている。
 ただ、隣近所にいて、たまたま同じクラスで、偶然に同席したときの話だった。
 その時からすでに十年近く経っている。酒もタバコも大手を振って楽しめる年齢に達し
たが、それでも目の前の青年はずっと昔のまま足踏みをしている気がする。
「学者になろうと思うんだ。今まで詰め込んできたものを全部使いたいから」
 夢は子供の頃から、今になっても変わっていなくて、苦笑する。
 同時に、不安も感じる。それは子供の頃に見てきた脆さで、今で現れた危うさだ。

 一度、幸福について聞いてみたことがある。
 その時、彼はぽつりと一言だけこぼした。
「良く分からない。このままでいていいとはまったく思わないし、何かしなければならな
いとは思う。幸せは欲求の充足じゃないのか? だったら僕はまだ求め続けている。幸福
はこの手にない」
 そういうものじゃない、と言いたかったけれど、反論する言葉は持てなかった。
 自分でも言葉に出来ないようなもので、そしてそれは彼になかったからだ。
 私は家族が好きだ。近所の人が好きだ。クラスメイトの人たちが好きで、彼もまた好き
だった。幸福は十分に満ち足りていて、周囲もまたそうだったと思う。
 ただ、彼だけが違っていて、だから彼は微妙に歯車を狂わせている。
 人を好きになることが幸福なんじゃないか、とかおかしな質問を投げたら、彼も珍しく
考え込んでしまって、一時間近く待たされた。
「……解からない。好意を抱くこと。人を好きになること。どういうことなんだ、それ」
「……相手のことが欲しいとか、そんな感じでいいんじゃない?」
 口を開いたと思ったらこれだから、思わず投げやりに答えてしまった。
 ただ、奇妙なことに彼はその言葉を聴いて納得したようにしみじみと頷くと、
「今まで悩んでいたことに答えが出た気がする。ありがとう」
 そういって、ふらりと何処かへ行ってしまった。
 どうせ行き先は図書館だろうけど、その足取りは何処か楽しそうに見えた。

 そして、数年。
 私は結婚することになった。
 既に式も近い。気持ち悪いことに、両親がすでに手際よく決めていたらしい。
 本当に突然な話だったが、見合い話から始まって一ヶ月のスピード結婚だからしょうが
ない。ともあれ、悪い相手じゃなさそうだったし、私も就職活動なんて精神を鰹節みたい
に削る作業みたいなもんだと思っていたので、この話は渡りに船だった、とも言える。
 不要な荷物を処分して、ほんの少しの衣類と化粧品だけが残った、自分の部屋を見る。
 がらんとした部屋の中で、最後に残っている心残りを思い返した。
 私の好きだった彼は今、遠い外国で最先端の研究に従事しているらしい。新たに開発さ
れたエネルギー源やら新発見された粒子やらの情報はこっちにも入ってくるが、マスコミ
のフィルターを通してる限りはまったく意味が無い。
 彼を知るものの誰もが、突然の出立に驚いたらしい。引き止める間もないほど唐突で、
素早い行動だった。インドア派だったのは見た目だけで、実はすさまじく行動的な性格、
だったようだ。
 ……変わり者だった彼は、向こうで上手くやっているのだろうか。
 それを知りたくとも、テレビは研究の内容や、発見の偉大さをいい加減に要約して流す
ばかりで、あそこで今、実際に最先端を扱ってる人々の姿は映そうとしない。
 心残り。マリッジブルーと笑われるかもしれないが、ぽっかりと空いた大きな心残りだ。
 考えてみれば、彼といる時間が一番長かったように思う。
 家族よりも、他のどの友達よりも。
 なんでそうだったのかは単純で、自分の一番好きな人だったからだろう。
 後悔の念が少しだけ強くなる。
 どうして付いていかなかったのか。どうしてこんなところで結婚するのか。
 どれにしても理不尽で意味の無いことだったけれど、悩まずにはいられない。
「……私にも何も言わずに言っちゃったもんな、あいつ。一言くらいあっても良かったの
に。どんだけ世話焼いたと思ってるのよ。……ああ、本当に、好きだったんだなぁ」
 ため息のように呟いて、笑う。
 上手く笑えないから、顔を伏せた。鏡を視界に入れたくなかった。
 そのうち椅子に座ってるのも億劫になったので、ベッドの中に潜り込むことにした。
 両親は出かけている。だらしないと怒られる心配は無い。

 そうして、日も暮れて。気がついたら部屋の中が真っ暗になっていて。
 窓に何かが当たって、音を立てている。
 四拍子で一区切り。機械に演奏させているような丁寧さで音がする。
「……何?」
 両親は―――まだ帰ってきていない。
 ちらりと鏡を見て、ショートボブの髪にくっついた寝癖を無理やり押さえ込むと、窓を
開けて下を覗き込んで、思わず転げ落ちそうになった。
 彼が、車で、家の前に乗りつけている。
 頭が真っ白になった。
「ちょっと、あんたなんで……!」
「迎えに来た」
 言いたいことは無数にありすぎたけれど、その前に彼が全てを遮断して、簡単に目的を
言ってくれた。
「……え?」
「君が昔言ってくれたことだ。向こうに行ってようやく解かったんだ」
 カーステレオでかかっている曲が遠く聞こえるような気がする。車を良く見ればそれは
私の良く知っている友達の所有物であり、いわゆる国産スポーツカーだった。
 つまりこれは、そいつも協力している、ということだろう。
 彼も私が結婚するということを知っているに違いない。
「それって……え?」
「君が欲しい。そのためにここまで来た」
 それは、つまり。
「ずっと、考えてたんだ。僕が君のそばにいること。君が僕のそばにいること。請われる
ことも無くて、どうして一緒にいるのか」
 ―――Deep think, is love at forever./洋楽らしき歌詞が耳に入ってくる。
 それは、つまり。彼の答えは。
「解かってみれば単純だったよ。欲求だ。相手を求めること。相手の存在が自分にとって、
とても大きな影響を与えるプラス要因だからなんだ」
 ―――I'm change is thaw now with you're./歌詞が高らかに何かを叫んでいる。
 彼の答えは。理論的過ぎたけど。
「人間は社会的な生き物だ。一人では生きられない。だから、必ず誰かを求める。そう、
だから……はっきり言える。僕は君のことが好きで、ずっと一緒にいたい」
 ―――Thought me may can't fly alone./叫ぶ声は、私に届いて。
 理論的過ぎたけど。ずっと、私の求めていたことだった。
「……もう、何もかも処分しちゃってて、服と化粧道具しか残ってないわよ?」
「いいよ。準備は早い方がいい。処分して後悔したものは、僕が取り戻すよ」
「うん」
 迷わなかった。マリッジブルーは考えうる限り過激な方法で解決することにした。
 旅行用のかばんに服と化粧品を投げ込んで、車に飛び乗る。
 既に空港のチケットも取ってあるらしい。恐ろしいほど用意周到だ―――といっても、
ほとんどの手はずは友人がやってくれたらしいのだけど。車もその一環で、彼は今、空港
で私にニヤニヤ笑いを浴びせかけて祝福すべく待ちわびているはずだった。
 不安は、無いといえば嘘になる。でも不思議と気持ちはすっきりしていた。

 彼のスピードに乗って、車もBGMも加速している。
 その波に自分も乗っかっていることを想像して、なんだか楽しくなった。






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