夜の空には大河と彗星が流れていた。
 夏の天の川は何より美しい。遠く光年の彼方に燃える星が燎原のように広がって、暑い
夜も涼しげに思わせるほど冴え渡っている。その中をときおり滑って落ちる流星は川面に
跳ねる岩魚のように思えた。
 ただ、彗星だけは随分と地上に近い。もちろん空の上だから離れていることに変わりは
ないが、その光は大気圏内に存在しているから様子がおかしい。かといって落下するもの
かと思えばそれも違い、平衡を保って気紛れな軌跡を描いている。
「風が気持ちいいな」
 そう呟いた小さな彗星は、霧雨魔理沙だった。
 蒸し暑さに耐えかねたのと、この雲ひとつ無く晴れた善い夜に星を見ないのは勿体無い
のとで、愛用の箒を引っ掴んで文字通り飛び出したのである。
 もちろん、普通は夜歩きなど危なっかしくて出来はしないが、彼女の場合“魔法使い”
という単語が“普通の”の後に付く。何を以って普通とするのかは不明だが、ともかく並
の妖怪が迂闊に手を出せないことは確かだ。
 何しろ派手で破壊的な魔法を使うことにおいては右に出るものが居ないのだから。
 地上では淀む空気も、いと高い場所では光るように吹きつけて来る。汗のにじんだ肌に
は、夜空の星に濡れた冷たさが心地いい。
 その風を乗りこなすようにしながら、魔理沙はしばらく空を眺めながら適当に旋回して
いたが、やがて少しずつ高度を落としていく。半袖のエプロンドレスから伸びる腕を擦っ
ている様子を見ると、少し冷えすぎたらしい。
 さすがに夏と言えど上空は冷房が効きすぎているようだ。
「……お?」
 高度を落としてゆっくりと旋回する。眼下には広大な湖が広がり、莫大な量の淡水が鏡
のように星空を映している。その中心には、今は暗い色彩にしかみえない館が小島の上に
立っている。そこが昼になれば驚くほど紅い色彩が眼を惹くことを、魔理沙は知っていた。
 その湖の水が少し揺らいだように見えて、好奇心をくすぐった。
(……水辺も涼しいしな。ちょいと行ってみるか)
 元々ぶらりと目的もなく出てきたのだから、寄らない理由はない。
 箒の角度を変えて、魔理沙は一気に降下した。


 やはり、湖は波紋を広げていた。風が波を作ることは良くあることだったが、それにし
ても波の立つ方向が風向きと違っているし、湖を撫でるには少し弱い。
 何か別のものが居ることは明らかだったが、水辺に降り立ってもその姿は見えない。
 単に潜っているのか、とうの昔に何処かへ行ってしまったのか。
 魔理沙は前者を支持することにして、ぶらぶらと湖の周りを歩いていく。
 自然に出来た道があるからか、藪や足元に悩まされることも無い。
「そういえばここの湖、何が泳いでるんだっけか」
 この間はシーラカンスなる魚を釣った覚えがある。淡水だからといって油断は出来ない。
たまに深海魚さえも釣れるので、かなり荒唐無稽な生態系を作っていることは想像に難く
なかった。それも魔理沙にとっては面白いのだが。
 そんなふうに湖の底で生きる名状しがたい生命群を想像しながら、道なりに湖を眺めて
ぶらついていると、やがて怪しいものにぶつかった。
「……なんだこりゃ」
 道と湖の間が一番狭い場所―――桟橋でも掛かっていたら似合いそうなロケーション。
 そこに、何か布のようなものがぽつん、と置いてあった。
 一見、それは衣服のようだった。いや、間違いなく衣服だった。それも上下一揃いで、
靴まであった。髪を結んでいたと思われる皺の寄ったリボンもある。全て丁寧に畳まれて
重ねられていた。
 魔理沙はてっきり誰か身投げでもしたのかと思って寒気を覚えたが、少し考えてみると
妙だった。服も脱いで自殺する奴なんているのだろうか。居るかも知れないが、普通は靴
だけ脱いで飛び降りるものではないだろうか。
 ……気になる。
 そう思って魔理沙は衣服に触れてみた。撫でるとかすかに堅い感触がある―――上着ら
しいものをそっとめくると、紅いズボンのようなものの上に、手拭いが置いてある。何か
を包んでいるようだ。
 それを解いてみると、下着と小さな袋が中に入っていた。
 ―――手拭い?
 どうやら身投げではないらしい。水浴びか。
 そんなことを考えつつ袋の紐を解いて開ける―――明らかに置き引き紛いの行動だった
が、この時点で魔理沙に盗む気は無かった。まだそうと決まったわけではないが、死人の
持ち物を盗んで祟られても困る。お祓いの出来そうな巫女はやる気ないし、自業自得とか
言うに違いない。
 逆に言えば、祟られなければ持っていく、ということでもあるが。
 魔理沙は袋の中を覗いた。遺書らしきものは見当たらない。その代わりに細身で片刃の
小さなナイフと、纏めて和紙で束ねてある札。後は妙に煌びやかな木の枝らしき装飾品と、
「笛か? こりゃまた随分と古臭い代物だな」
「悪かったね」
 紫の細い袋に包まれて、笛らしきものが一本入っていた。
 フルートかとも思ったが、素材が違う。手触りからして竹で、以前に暇つぶしで博麗神
社の蔵を漁った時に見かけた物に似ている。霊夢が言うには祭具らしいが、埃を被ってい
たから実に怪しいものだ。そもそもまともな祭祀をしていたところなど見たことがない。
古臭いという印象は、その時から来ている。実際がどうかは知らないが、第一印象がそう
いうものだったのだから仕方がない。
 だが、対してこちらの笛は随分と手入れされているように見える―――

 ―――あれ?

「よう。こんな夜中に置き引きとは精が出るじゃない」
「……ありゃ?」
 肝が冷えそうになる声―――現に魔理沙は冷えた。
 そっと袋を戻して振り向くと、真っ白な姿があった。
 もう一度背筋が冷えた。
「ところで、火刑と死刑と磔刑、どれが好きだ?」
「言っておくが盗んでるんじゃなくてしばらく借りてるんだぜ? 死ぬまで」
「そうか。じゃあ今すぐ死ぬか?」
「持ってくつもりは無いから安心しろ。ついでにまだ死ぬつもりも無いぜ」
「……殺しても死にそうに無いな」
 呆れたような視線を跳ね返しつつ、魔理沙は虚勢交じりに笑って立ち上がった。
 改めて振り返ると、白い人影が随分と近い距離に居たことが解かる。水の中から上がっ
て音も無く近づいてくるとは、なかなか剣呑だった。本当の泥棒なら今頃は魚の餌だろう。
「しかし、何してたんだよお前。てっきり身投げかと思ったんだが」
「手拭い用意して身を投げる奴がいるかよ。暑かったから水浴びに来たんだよ」
 言いながら、人影―――藤原妹紅は髪から滴る雫を丁寧に絞った。その一糸纏わぬ身は
かなり水気を吸っていて、白い肌についた雫が宝石のように光っている。どうやら本当に
湖で泳いでいたらしい。
「ほら、手拭い返せよ」
「よく泳げるな。何がいるか解からんのに」
「大抵は昼飯にするから平気よ」
 手拭いを投げつけながら聞くと、何でもないように答えられる―――水中で火が使える
のだろうか、とも思ったが、その火が物理的なものというわけでは無いだろうし、恐らく
は普通の火と違うのだろう。
 ……素手で仕留める、と言われても信憑性はあるが。
 見た感じだけで言えば儚い美少女だろうが、その実態は弾幕を交えた魔理沙自身が良く
知っている。
 儚いだって? むしろ墓が要らないだろう―――冗談交じりの印象。
 ただし的中率は九割をマークしている。
「しかし―――」
 視線で妹紅をなぞる。
 魔理沙より少し年上といった印象だが、背は随分と高く感じる。
 ついでに曲線も艶かしく滑らかで、その上に目へ焼きつくような白さが目立つ。銀髪と
紅の瞳という組み合わせから考えたら、妖精か何かと見間違えるのではないだろうか。
 蛇足である発育の差については考えないことにした。まだ未来は明るいのだから。
 そうして何気なく観察しながら―――魔理沙は口に出していた。
「あれだな」
「何だよ」
「無いんだな」
「……何が?」
「毛」
「これでも少しは……つーか変な場所を見るな。燃やすぞ」
 紅色のついた表情で睨みつけられて、魔理沙は苦笑いしながら視線を逸らした。
 そのまま、身支度を終えるまで待つ。
「……で、お前は?」
「善い夜だから散歩だぜ」
「暑いのに?」
「空の上は涼しいんだぜ?」
「じゃあそっちがメインだろ」
「まあな」
 ふと、視界に素足が入った。
 見上げると完全な妹紅が居たから、どうやら靴はまだ履かないらしい。
 たぶん少し土がついているからだろう。
 証拠として片手には一揃いの靴がぶら下げてある。
「風、あんまりないな。湖の傍なのにさ」
「これから吹くさ。今は深呼吸中なんだろ」
 答えながら、妹紅はそのまま岸に戻って両足を浸した。魔理沙もそれに習って靴と靴下
を脱いで、足を突っ込んだ。実に冷たくて心地がいい。もし泳ぐとなれば最高かも知れな
いが、さすがにそこまですると手間がかかるから思い直した。
 次に来るときはタオルも持っていこう。どうせ明日も暑いだろうし。
 そんなことを考えながら、魔理沙は天を仰いで足を伸ばした。
 随分と静かだった。まるで時間の流れがここだけ停止しているようにも思える。
 草の上に寝転がると、隣に妹紅の持ち物である袋が見えた。
 中身を思い出す―――奇妙なラインナップに興味を惹かれた。
 特に一番気を惹かれたのは―――鮮やかな朱に塗られた、あれだ。
「そういえばさ」
「ん?」
 何となく口に出していた。気になるなら我慢しないのが信条だった。
「笛」
「ああ」
「吹けるのか?」
「……あのなぁ。吹けないなら持ち歩かないでしょ」
「ほう。……じゃあ上手いのか?」
「まあね」
「んじゃ一曲」
「図々しい奴め」
 言いながらも、妹紅は袋から一つ笛を取り出していた。その顔は笑っている。
「まあ、いいよ。減るもんじゃないし、涼しくて気も乗ってるから」
「そうか、そりゃ……」
 楽しみだ、と言いかけた所で、流れ出した音色に遮られた。
 しばし呆然としながら聞く―――腕前は魔理沙の想像以上だった。
 少し続いたところで、澄んだ音が途切れた。
 軽い準備演奏、といったところだろう。
「……驚いた。本当に上手いな。人は見かけによらん」
「……お前、どんなイメージで私を見てたのよ」
「聞きたいか?」
「止めとく。今は火なんて使いたくない」
「賢明だな」
 苦笑すると、再び笛の音が夜気に混ざり始めた。最初の方は妹紅の心情を反映するかの
ように強い音だったが、やがて弱くなり、切なくなっていく。
 じんわりと辺りに演奏が染み込んで行くのが魔理沙にも感じられた。楽器使いといえば
騒々しい三姉妹しか知らなかったから、これは斬新だった。少なくとも聞いているうちに
泣きたくなって来るような音は初めて聴く。
 風のないことが、今はありがたかった。混じり気なく聴くことが出来る。
 最も、優れた奏者であればそういう音すら曲に編みこむと聴くから、あったらあったで
別の姿、別の形を見ることが出来たかも知れない。
「……」
 音色が遠く感じる。すぐ傍にあるはずなのに、それが、手の届かない場所から聞こえて
くるような錯覚を覚える。何度か妹紅に視線をやるが、彼女は変わらず其処にいる。信じ
られないが、音色の強弱でここまで出来るものらしい。
 遠ざかっていた音が近づいてくる。儚げな音は変わらず、大きさだけが変わっている。
 それを聴いているうちに、知らず、あれこれと想像を巡らせ始めていた。曲のタイトル
も作曲者の名前も知らないから、却って混じり気なくイメージ出来る。その想像が、最初
から―――今、ここで思い浮かべる前から在ったような気分を、魔理沙は覚えた。
 近づいた音は、何かを告げるように印象的な色を残して、再び遠ざかっていった。
 やがて演奏が終わる。
 それを待って、魔理沙は聴いてみた。
「なあ、それ。ひょっとして別れの曲か?」
「……意外だ。感性鋭いのね」
「ほう。普段の私をどんな風に見てるんだ?」
「謂わぬが華ね」
「こんにゃろ」
 互いに笑う。
「……まあ、題は知らないけど。確か別れた親に捧げる曲、だったかな。楽譜じゃなくて
その場で教えてもらった奴だからうろ覚えだけどね」
「……親か」
 ふと、妹紅は魔理沙が微妙な顔をしているのに気がついた。
 もちろん、推測と想像しか出来ない。
 出来ないが、この歳で独立していることを考えると察するに余りあるだろう。
 だから、妹紅は何も聞かないことにした。
 勝手な詮索も同情も、立派に生きている彼女には非礼だろう。
「ま、良い曲には変わりないか」
 取り繕うようにそんなことを言う魔理沙の横顔が、少し大人びて見えた。
 そのせいか、ふと妹紅はもう一つだけ言いたくなった。
 この曲に込められているものを。
「……これ、さ」
「ん?」
「鎮魂歌でもあるんだよ」
 魔理沙は沈黙した。
 近づいては遠ざかる音色の意味が、解かった気がした。
 横目で見ると、妹紅は何をするでもなく、笛を膝の上に置いたまま、空を見上げている。
「死に目には会えなくてさ。今も後悔してる」
 ぽつりとした呟き。それが胸に痛い。
「……なあ、妹紅」
「ん?」

 ―――ふと、一つの想像がよぎった。
 先ほど奏したあの曲。
 あれは、妹紅自身が作ったものなのだろうか、と。
 想像でしかないが、問い質す気にはなれなかった。
 恐らく、聞いても答えまい。

 だから、さりげなく話を変えることにした。
「……次は明るい奴で頼むぜ」
「そうね。しんみりしすぎたわ」
 ばしゃりと、妹紅が水面を蹴る。冷たい水が霧のように宙を舞って、波紋を広げた。
 同時に、淀んで温んでいた風が、急に冷たさを取り戻し始める。
「風ね」
「湖か」
 眠っていたものが起き出した―――そう思えた。
 妹紅は再び笛を持ち上げて唇に当てる。
「……あ、リクエストある?」
「“恋色マスタースパーク”」
 手前味噌過ぎて吹いた。二重の意味で。
 魔理沙はにやにやと笑っている。
「……テンション高すぎだろそれ。しかも何気に難易度高いぞ、笛だと」
「出来ないのか?」
「出来るさ」
 平安貴族を無礼るなと言わんばかりに笑みをぶつけると、妹紅は再び笛を手に取る。
 湖のほとりには相変わらず静寂が歩いている。それもやがて去り、風が吹き始める。
 星の綺麗な夜に、今度は駆け抜けるようなメロディが響き出した。
 ようやく流れ出した、涼やかな湖の息吹に乗って。






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