―――ただ何も考えぬままに駆けていた。
 風を切り、草を切り、枝葉を切って、荒々しい起伏がついた土の上を踏みしめる。
 異形と化すまでに膨れ上がった根を飛び越え、長き時を過ごした幹をすり抜けて、ただ
内側から溢れ出す衝動に従って、秋の山の中を走っていた。
 方角は太陽が、時刻は空の色が教えてくれている。
 道は獣がすでに拓き、音は風が伝えてくれている。
 極大まで鋭敏になった感覚は周囲が森と獣、そして水しかないことを思考を忘れたその
肉体に知らせてくれていた。
 雑音も雑想もない境地は快感だった。
 一切の煩わしきを忘れ、四肢で土を蹴り飛ばし、銀の毛で風を受け流し、瞳で樹海を見
通し、ただ走り続けるのみだったが、それだけで狼は満足だった。
 自らが世界に溶け込んでいくような感覚は、原始的なものだという気もしたが、だから
こそ必要なのだ、という直感の前に溶けて消え―――再び無念無想に立ち戻る。
 いずれの人も立ち入らぬ山の中を走っていたのは、一柱の狼だった。鮮やかな銀の毛並
みとしなやかに発達した四肢に、知性的な輝きがある。
 その造形は躍動よりも静止に通ずるものがあり、どちらかといえば森の奥で静かにたた
ずんでいる方が似合っているようにも感じられるが、今は何を思ってか、あるいは座り込
んでいるのに飽いたのか、こうして山の中を激流のように突っ走っている。
 その狼は山を螺旋で覆うように巡っていた。
 頂上から山麓まで、山麓から頂上までと、何度も何度も走っている。
 周回した数は分からない―――数えてもいないが、山の前には大きな滝がある。
 螺旋を描いて走るのであれば、その滝は深く切り立った崖となって立ちはだかる。
 それが一周分の目安になった。

 ―――ざあ、と音を立てて山頂の湖から冷たい風が降りてきた。

 同時に、声が耳元で囁くように言った。
(隊長ー、そろそろ交代の時間ですよ)
 そろそろ戻る頃合だろうか、と思った。
 いつまでも空けているわけにもいかない。
(分かった。ちょっと待っててね)
 声に出さず返事をする。すでに気晴らしは終わっているし、冷たい風は熱い身体を冷や
してくれたから、ちょうど良かった。
 湖からの風に煽られて、赤く黄色く染まった葉が嵐のように落ちてくる。
 視界は遮られ、足元は不安定だったが、その中を崩れもせずに、走り抜ける。
 やがて狼は、滝にたどり着き、その崖を飛び―――
「……お待たせ」
 滝をくぐった瞬間には、人の姿を取っていた。


「お帰りなさい。また遠駆けですか?」
「一人のときはこれが一番なのよ」
 普通の三倍はありそうな将棋版の前に座っている同僚にそう答えて、犬走椛は大きく体
を伸ばした。酷使した筋肉をほぐすようにあちこちを捻っていく。
 妖怪の山の滝はいろいろと手を加えられて、その裏側は見事な階層構造になっている。
日除けのついた本棚にも似た構造になっている洞窟は、滝を遡ってくる侵入者に対処する
ため考案されたものだ。
「で、そっちは?」
「また負けそうです」
 椛の言葉に、同僚で同族の白狼天狗は情けない笑みを見せた。
 対面には河童が座り込んでにやりと笑っている。たぶん、酒だか夕食のおごりを賭けて
やっていたのだろう、ずいぶんと嬉しそうな顔だった。
「交代する?」
「いや、もう少しだけ」
「じゃあ、身支度整えるまでね」
 はあいという返事とぱちんという駒の音を聞きながら、椛は滝の水を直に汲んで、汗ば
んだ身体を清めていく。秋の流水は熱くなった身体に心地良かった。
「お疲れ様ですー。どうですか?」
「暇ですよ。あの一件以来、わざわざこっちに来る手合いも居ないようです」
 水気を拭って服を着たところで、烏天狗の射命丸文がひょっこりと顔を出してきた。
 一応は上司、のような関係だったが、妖怪に役職による上下関係の概念は薄いので、ほ
とんど友達のような感覚でお互いに接している。
「お酒持ってきたんですけど、椛さんはいかがですか?」
「……一応は仕事中ですってば」
 にこにこしている上司に苦笑しながらも、尻尾の方は正直にふりふりしていたりする。
 つまるところ御相伴に預かる気はあったが、その前に、と、椛は愛用の剣と盾を引っ掛
 けていた壁から持ち出そうとした。
「ちょっと一回りしてきますから、戻ってきたらお相手します―――あれ?」
 なんかぷにぷにして上手く柄が握れない。
「椛さん、全部人化できてませんよ」
「……ありゃ、ちょっと失敗したかな」
 見れば、手には大きな肉球があった。
 ついでに腕の半ばまでふさふさした毛に覆われている。
 足を見ると、そちらも同じような状態だった。
 そういえば靴も履き忘れていた。足の感触があまりにも自然だったから気づかなかった。
「少し走りすぎたかしら」
「あれ、野性に帰ってたんですか?」
「その言い方はちょっと……まあじっとしてるのもストレスたまるので」
「……つついてみていいですか?」
「いや、あの、そんなきらきらした目で見ないでくださいね?」
 椛はようやく、器用に剣を握ることが出来た。
 それでも、やっぱりぷにぷにしてて握りづらかった。






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