天に頭を垂れて、地に目礼を交わし、水に釣り糸を下げればそこは桃源郷。
 誰が残した言葉なのか、それとも現在進行形で語られる格言なのか。その判別は昔話の
原典くらい困難だったが、ともあれ一生を楽しむなら釣りを覚えろ、という言葉は間違い
では無さそうだった。
 手ずから凝りに凝って作り上げた竹の釣り竿から伸びる銀色の糸は、陽炎にけぶり対岸
の見えない湖の中へと沈んでいる。深い水底は見通せず、どんな魚がいるかも解からない。
 話によれば珍魚怪魚の類が能く釣れる、とのことで、そうしたレア物を狙う漁師も多く
居たが、実際に釣った人物はごくわずかだ。年月を経て知恵と長寿を得た妖怪魚相手だ、
人間ごときに簡単に釣られるはずもない。だからこそ狙い甲斐もあるのだろうが。
 ただ、今はほとんど人気が絶えて久しい。ここのところ天気が異常に荒れたので、人里
に住む者は外出を控えている。異変は過ぎ去っているように思えたが、石橋を叩いて渡る
ようなもので、用心に越したことは無いのだろう。
「……ふむ」
 そんな中、ただ一人釣り針を落としていた人物が竿を振って水から魚を一匹引き上げた。
何の変哲も無い山女。形は悪くない。
 人気が減った分、魚も警戒心を無くしているらしい、と藤原妹紅は思った。
 光をやたらと反射する銀髪の上には、麦わら帽子が乗っている。夏の太陽を避けるには
定番の装備である。ぎらぎら光る髪の毛で魚が警戒するのを避ける意味合いもある。
「もう少し深いところ狙ってみるか」
 ひとり呟いて、針と糸を弄りだす。
 傍に置いてある魚篭には二、三匹の釣果が泳いでいる。釣り糸を垂れ始めてから一時間
と少々。手に汗握るほどの戦いは全く無かったが、まあこんなものだろう。
 餌を探すのが面倒なので針は疑似餌として飾り付けられている。糸を切られたりしなけ
れば何度でも湖の中に放り込んで魚を誘える優れものである。扱うには相応の慣れが必要
だったが、妹紅には数百年クラスで経験がある。自分の手足のように振るえた。
 ちなみに糸も特別製で、彼女が自分の髪の毛を加工して作り上げた頑丈なものだ。荷物
を満載した大八車を引っ張っても千切れない。ちょっとずるい道具だったが、切った糸と
針で水を汚すよりは良かろう。
「……お」
 針を沈めて数分、いきなり手ごたえがあった。根がかりでもしたのかと疑ったが、生き
物のように竿の先が上下に動いていることから、どうやら獲物でいいらしい。
 手ごたえは、かなり重い。
 知らず、笑みが浮かぶ。
 釣りの醍醐味はこの瞬間から始まる闘いそのものだ。
 野生の権化との知恵比べ、力比べである。
 盛り上がるテンションに任せて竿を引っ張り上げ―――
 ざばー、とあっさり陸に上がる釣果。
「あら」
「……ありゃ」
 全身を水で濡らした人らしきものが、一人。
「……ええっと」
「ああ、どうも助けてくださってありがとうございます」
「いや、そうじゃなくて」
「岩をどけるのに難儀してたんですよ」
 ぶらーり、と襟首に針の掛かった状態のままの人物から、にこやかに礼を言われる経験
は妹紅ですら初めてだった。




「永江衣玖と申します、太公望さん。今後ともよしなに」
「いや、自己紹介はいいけど。なんで沈んでたの?」
「ちょっと要石と格闘を」
「……意味が解からん」
「正確にはとある御方へちょっと、軽く―――お仕置きを」
「物騒だな……とある御方って?」
「私の勝ちだったと思うんですが、最後に石を落とされて二人一緒に沈んでしまったもの
でして。自爆覚悟とは侮れませんね」
 そういえば昨日、なにやら派手に雷と地震が起きていた気がする。どちらも大して被害
は無かったが、里の人間は竜神様が腹でも下したのかと驚いて物忌みしている。もし理由
がそうだと知ったら呆れるか腹を立てるだろうな、と妹紅は思った。
「どうかなされました?」
「いや、なんでも。……つーか、降りたら?」
「そうですね。立ち話も何ですので」
「いや、立ってないから」
 その後、自分で針を外して隣に(正座で)座り込んだ衣玖の話を聞くと、なんでも竜宮
の使いなのだそうだ。そんなやんごとなき身の上の人物がわざわざ地上に降りてきた理由
を問いただしてみると、どうやらまだ湖に沈んだままの人物へお灸を据えに来たらしい。
「こう、電撃でビリビリとですね」
「肩こりが治りそうなお灸だな、それ。……ああ、私は要らないからね?」
「健康そうですものね。そういえば貴方を何処かで見た気がします」
「岩長姫様に挨拶行った時かな……」
 どうでもいい話をしながら、再び釣り糸を垂れる。
 そういえばなんでこんな会話をしてるのだろうか、と疑問に思わなくも無かったが、夏
の気温と釣竿の感覚で希釈されて消える。ともあれ互いに邪魔でなければそれも良かろう。
見た感じ、お灸を据えた人物とやらのことでストレスが溜まっていそうだったし、釣りを
眺めて息抜きになるのなら別に構わなかった。
「でもあんたらって滅多に降りてこないのに、いったいどんな奴を追いかけて?」
「それはですね……あ、掛かってますよ」
「お」
 続けざまの当たり。
 先ほどは面食らうものが釣れたが、今度は大丈夫だろうと竿を引っ張り揚げる。
 強靭な若竹を峻別して作り上げた朱塗りの竿は無敵だ。たとえ一貫を超える獲物だろう
と折れず割れず柔らかに引っ張り上げ―――
「ふぃーっしゅ!」
 また何か釣った。魚が自分をフィッシュなどと言うのだろうか。
 思考停止している妹紅の目線の先には、再び魚というには異常な姿。
 満面の笑みで釣り針を握り締める少女が、目の前で一人ぶらさがっている。
「天人ゲットおめでとう! お前を祝して私の神社を立てる権利をやろう―――」

 妹紅は無言で糸を切った。

 どぱーん、と水しぶきを上げて再び沈み行く謎の人物。
 浮かび上がってくるのは白い泡だけだった。
「……アレです」
「アレか」
 衣玖がため息をついて言った。
 暑さのせいか、頭痛がするような気がした。
「ちょっとー! 魚は釣り上げたらきちんと食べなきゃ駄目よー!」
 珍しいことにわざわざ逃がしたはずの魚が戻ってきた。
 ざばー、と自力で岸辺に上がって顔を出している少女。
 ひどくシュールな光景―――早く私の楽園を返して欲しい、と妹紅は思った。
「食べ物を粗末にしたらもったいないおばけが出るんだからね」
「最近の流行はキャッチ・アンド・リリースなんだ。解かったらとっとと水底に帰れ」
「いやあ、エラ呼吸が出来ないからちょっと。魚の気分を味わうのも楽しいけど」
「何で生きてるんだよ……」
「天人ですから」
「不良ですけどね……」
「ふはは、卵生の魚類如きが何を言うかー」
「ところで、湖に雷を落としたらどうなるのでしょうね」
「ごめんなさい。ビリビリはもういいです」
 慌てて岸へ上がる天人。なんというか、妙に親しみやすい天人も居たものだな、と思う。
 比那名居とか天子とかなんとか妙な名前をした彼女は何でも、天界が退屈だからこっち
へ遊びに来たらしい。随分と贅沢な話だった。以前、天気が妙なことになっていた異変は
暇な彼女が起こしていたそうだ。
「そうか、私の家が陽炎にまみれて発火したのもお前のせいか」
 太陽の熱で大気がいい感じに屈折してちょうど虫眼鏡のようなことになったらしく、目
が覚めたら家が炭になっていた。三日くらい凹んだのも今は昔の話である。
「貴女の気質は陽炎なのねー。人を煙に巻くけど、その内側に何があるかを隠し切れない
とかそんな感じのような。ひねくれてるようで正直者ってところね。ツンデレ?」
「衣玖さん。木生火で、雷は木気だったよな。増幅できるかな」
「そうですね。試します?」
「せ、せめて服を乾かすだけにしてね!」
 言葉の上ではそういいつつも、どこか不遜な気が抜けない天子。もちろん、真面目に相
手をしたら火傷しそうだから妹紅は気にしないでおいた。釣りの楽しみを捨てるべきでは
ないという判断もある。
 だから何も気にせず、次の一投へと没入しようとしたのだが、
「……で? 何で居座るんだよ」
「面白そうですから」
「総領娘様を放って行けませんから」
「……勘弁してよ、もう」
 興味津々の視線。ちりちりと背筋が痺れるような気配。
 今日はもう釣れそうに無いな、と妹紅は糸と針を付け直しながらため息をついた。







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