朝靄の漂う、薄い紫色に浸された山々が遠くに見える。

 紫はやがて茜となり、鮮やかな黄金となって、朝の訪れを告げる光となる。それこそが
夜と昼を分ける境であり、流れる時間そのものである。太陽の動きと雲の流れは、時間に
流されている世界を示す、いわば川に浮かぶ目印のようなものだった。
 徐々に色づく景色は碧と蒼色の色彩を帯びてゆき、鮮やかな木々や湖の広がる世界を黒
の下地から塗り重ね、昼の姿へと描かれていった。
 それは、誰もが生まれたときから知っている、目覚めの呼び声だ。
 起きるのは、人妖亡霊果ては器物の類まで、種を問わない。食事の支度をする人間、朝
の霧を吸おうと飛ぶ妖怪、亡霊は柳の下でのんびりと火を避け、水車が仕事を始める。
 その営みは香霖堂も例外ではなかった。ただ、少々毛色は違う。
「…………おや、もう朝か」
 森近霖之助は眩しげに窓ごしの空を見て、呟いた。
 手元には赤と金色を混ぜたような色彩に鍍金された八角形の物体が、その中身を見せて
鉄製の広い台に載せられていた。その周囲には妙な形をした工具や部品らしき物体があち
こちに転がっている。
 八角形はその内臓を晒していた。八卦陣の彫刻を施された金属板を下地に、ストーンサ
ークルの如く呪文が米粒よりも小さく刻み込まれた金属板が八枚そそりたち、それを囲む
ように三重の輪が連なっている。それぞれの輪にはルーンと思しき文字がびっしりと刻ま
れている。極めつけは一番外を鎧うカバーで、その内側には一枚一枚、星と月を意匠にし
た魔法陣が刻まれていて、その中心には“Love is another power!”とやけにフランクな
文体の古い英語が記してあった。
 霧雨魔理沙の必需品、ミニ八卦炉である。和洋折衷どころかなんでも滅茶苦茶に放り込
んだような構造と術式は、しかしながら彼女の一種天才的な感性と霖之助の苦労によって
奇跡的なバランスを保ち、物理法則を無視して魔力を増幅できるほどの性能を搭載してい
る。他にも暖房や空気清浄、温風や光線を吐き出したり、スペルの触媒にしたりとほぼ万
能である。これ一台で魔法使いとしての仕事には事欠くまい。
「まあ、こんなものかな」
 そういうと、霖之助は先ほどまで手を加えていた外装を、ミニ八卦炉へと着せていく。
かしゃり、と固い金属音と共に、剥き出しだった内部が強靭な壁に守られていった。緋々
色金を重ねた魔術的加工による合金は、デリケートな内部構造を物理的にも霊的にも遮断
し、外装の錆びも防ぐ。
「まったく、急な仕事は勘弁して欲しいところなんだけど……結局徹夜してしまったか。
僕も甘いな」
 果たして元の姿を取り戻した八卦炉を眺め、霖之助は苦笑する。
 初めに渡した時は、こんなじゃじゃ馬というか、玄人好みの扱い辛いものではなかった
のだが。どうも彼女は自分なりにアレンジするのが得意らしい。性能を上げるのは構わな
いが、あまり繊細にされるのも修理調整するこちらにとってはいい迷惑である。
「まあ、いいさ。今日は休業だし」
 香霖堂も、年中無休で空けているわけではない。里への買出しもあるし、なにより彼岸
めぐりを一番長くしていられる。その分収穫も多いし、コレクションも増える。
 が―――
「……少し寝ておくか。さすがに、徹夜で、精密な作業は……辛いな」
 霖之助は八卦炉をカウンタへ置くと、椅子にもたれたまま身体を伸ばし、そのまま眠っ
てしまう。長い仕事の達成感と疲労感は、冬には珍しい穏やかな日和と混ざり、彼を心地
良い眠りへと誘っていった。


 §


 冷たい風を結界で弾き飛ばしながら、魔理沙は太陽へ向かって飛翔していた。あたかも
イカロスの姿をなぞるようだが、実は特に意味はない。単に天気が良くて寒かったから、
身体を温めたかったのかもしれない。恋の魔法は常に熱い。
 雲海の生まれる高度まで垂直に上昇したところで、魔理沙は静止した。
「あ、そうだ。預けてたアレ、もってかないとな」
 箒の先と尻をそのままに、落下する。背面からの落下は恐怖感が薄れるというが、この
高度では大して差などない。が、彼女は楽しげに笑い、暴れ馬を手懐けるようにして箒を
操る。派手に穂先を跳ね上げて、背面飛行に移ると、半回転して元の姿勢へ。この間で、
全く速度は落としていない。慣性を無視した機動だが、それも魔法のなせる技だろう。元
々それは、物理法則のくびきが嵌められていない、最も自然的な力である。
 魔理沙はほぼ一瞬で魔法の森と人里の境界に当たる領域に辿り着くと、箒を垂直にして
ブレーキをかけ、そのまま一回転して降下。見事香霖堂の前に着陸を果たした。
「おーい、香霖、出来てるかー?」
 ばたんと騒々しくドアを開け―――
「……ありゃ」
 静かになる。
 かすかにかび臭い、古びた記憶の匂い。無数の古道具が放つ時間の空気は図書館に似て
いて、魔理沙は嫌いではなかった。その奥で、香霖―――霖之助が、椅子にもたれたまま
眠っている。その手前のカウンタには、金色に輝くミニ八卦炉。
「…………うん」
 魔理沙は極力足音を立てずに近づくと、カウンタに良く分からない金属の塊を、これま
たスカートの下から引っ張り出し、並べる。なんとなく集めていたものを、霖之助が代金
代わりに引き取ってくれるのだ。
 それからミニ八卦炉を手に取り―――
「……あー、うん」
 魔理沙は少し逡巡すると霖之助の元へと歩き出した。


 §


 穏やかな日和。冬といえども太陽の熱で暖められれば、それは春の幻想となる。仮初め
ながら、その暖かさは真実。時刻が昼に近づく頃ともなれば、それも顕著である。
 霖之助は、まだ眠っている。
 椅子に背中を預けていたその姿には、毛布が一枚、抱きつくように巻かれていた。
 そして、カウンタには、書置きが一枚。
 そこにはぶっきらぼうな文字で、

「ありがとな」

 とだけ記してあった。










SS
ENTRANCE
INDEX






inserted by FC2 system