茫漠とした白が目の前を染めている。否、正確には薄いクリーム色をした紙束の海が私
の座っている机の前に広がっている。
 見回せば足元のゴミ箱には大量の握りつぶされたように縮こまっている紙が詰め込まれ、
さらにはその周囲にも散乱している。それだけでは飽き足らず、私の周囲はこれ全て紙と
なっていて、椅子を動かすたびにかさかさと乾いた音を立てる。まるで死者がその乾いた
唇で怨嗟の声を上げているようだ。声の主は切り倒され、陵辱の限りを尽くされて死んだ
樹だろうか、それとも自己の人生を無為に消費させられた紙のほうだろうか。
 その紙と同じ様に、私の意識は空虚だった。意味のある言葉は浮かばず、走馬灯のよう
に取り留めも無い文字とイメージと感覚がよぎっていく。まるで集中できていない。雑多
な子供の玩具箱に似ている。私にとってそれは悪夢だった。一切合財の悪意を持たず、し
かし今こうして私を締め付ける邪悪だった。
 どうにかその悪夢から逃れようと、目を動かして柱にかけた時計を見ると、秒針が異常
なほど遅く動いているような錯覚に襲われた。真綿で首を絞めるように、無機質な音を立
ててカウントされる時間―――切り刻まれた概念が私を切り刻もうとしてくる。
 妄想だ。全て被害妄想で、錯覚だ。
 私は私のなすべきことを、したいことをしようとして失敗しているだけだ。
 失敗など誰にでもある。それの何が悪い。次に活かせばいいことだ。
 しかし―――嗚呼、しかし、私にはそれが出来ない。今、此処では必要ではない。
 必要なのは成功なのだ。
 震える指でゴールデンバットのケースから細巻きの煙草を取り出し、愛用のジッポーで
火をつける―――五度、六度と火花を散らしてようやく点火した。ずいぶんと長く使い込
んでいる。そういえば石を変えていなかった。あとで変えよう。
 紫煙。たなびく雲。長い帯を引いて、宙に解けていく。大気へと溶け込んで行く。混迷
を極めた私の意識も蕩けて、一時、自己を忘れる。
 この瞬間だけ、私は賢者になれる。
 なれるが、いささか遅すぎる気もした。気がつけば苦境は魔境へと姿を変えている。
 残酷だった。私は叡智と引き換えに取り戻せぬものを失っている。
 慌てて部屋を飛び出し、顔を洗う。鏡には血走ってやせた目をした人間の姿が映る。そ
れが自分だと思うと滑稽だった。もしも太古の神々や地を走る獣が私を見れば、きっと同
じ思いを抱くだろう。
 人間くらいのものなのだ―――こうして自分の作り出したものに縛られ、苦しみ、のた
打ち回るような存在など。獣は悩まない。神々は縛られたりなどしない。人間だけだ。人
間だけが歓んでこの苦痛を享受し、出血し続けている。
 無数の皮肉な思いを振り切りながら、部屋に戻って机に座る。
 思考はようやく混迷を抜け出し―――私は未だ危機の只中だが、ある一点のみを研究す
ることに成功していた。足りない歯車を補って、ようやくバネが動き出している感じだ。
 それは、どのようにして“人”を“殺す”かだった。
 延々とそれだけを、このかた五年間も考えてきた。
 私を追い回す者を退ける、最良の方法だった。
 法も倫理も所詮は人の決めたものだ。神が神の決めたものに従うだろうか。私は人だ。
人だから人が決めたものに従う義理など無い。神が決めたとなれば諦めもつくが、今まで
私が罰せられてこなかった以上、殺人について神は定義してないと思しい。一神教のよう
に厳格なものであればともかく、この国の神はおおらかなのが助かる。
 問題は、私がそう思っていても、周囲が、世間が、社会が許さないということだった。
自己保存の本能に従って、殺人を忌避し糾弾し、いたずらに命を賛美することほど醜いも
のは無い。生命はいずれ死に、土へ還る。当然の営みであり、どこにでも起きているあり
ふれた現象だ。人間だけだ。人間だけがそのなんでもないことにむきになっている。繰り
返すが、これほど醜いものは無い。無いが、私は社会を抹殺できるほど力を持っているわ
けではないから、表面上は従わなければならない。
 殺人で最高なのは―――殺した後も何食わぬ顔で小市民のように振舞って生活していけ
ることだ。殺人者がその状況を手に入れるにはクリアすべき無数の障害がある。
 まず、どう殺せばいいのかが障壁になる。明らかに誰かが殺したと分かってしまえば、
いずれは捕まる運命にある。出来るだけ自然に、人の手とは見えないような殺し方がいい。
たとえば心臓麻痺だとか変死だとか、そういった曖昧なものがいい。
 それが無理なら、死体は隠すのがいい。何もかも証拠を残さず、殺害対象を取り除けば
いい。行方不明扱いになってくれればなお良い。行方不明者を殺人の被害者として探す、
などという非効率を警察はやらない。せいぜいビラを張り出すくらいだ。
 では、どうやって隠すか?
 山の中に埋めるのでは、相当深く掘らねばいずれ発見される。しかし深く掘ろうとすれ
ば人目に付く可能性は比例のグラフを描いていく。重りを付けて海に沈めるのも悪くない
が、重りの加減を間違えると浮かんでくるかもしれない。また重りとのつながりが切れる
かもしれない。切り刻んで燃えるゴミに混ぜて捨てるのはどうだろうか―――大胆だが、
かなり危険だ。却下しよう。
 悩んだ末に、私は海を選ぶことにした。本人の車を盗み出し、車ごと海に捨てれば失踪
という形に偽装することは非常に簡単だった。
 次に必要なことは、私に累が及ばないような手を打っておくことだ。怪しい人物として
リストアップされればそれだけでアウトだ。それを避けるために、出来る限り不在証明と
動機の無いことをアピールしなければならない。一番良いのは殺害した時刻に殺害現場に
いなかったという証明と、殺害に至りそうな動機を隠し通すことだろう。
 しかし―――人の口から動機になりそうな出来事が漏れるかもしれない。あるいは最初
から包み隠さずそういうことを言うべきだろうか。それが逆に隠れ蓑として機能するかも
しれない。この辺りは、警察の振舞い次第だろうか。
 さあ、いよいよ殺害方法に入る。殺害自体は非常にたやすい。鈍器で頭部を殴打、心臓
および循環器の破壊、他にも毒殺、焼殺、爆殺、よりどりみどりだ。もし殺人が法に触れ
ないのなら世の中は殺人鬼だらけになるだろう。それほど人体の破壊は容易だ。
 死体を隠すのであれば遠慮は要らないのだろうが―――出来れば悲鳴は上げられたくな
いし、血痕も残したくは無い。一番いいのは毒殺だが、すぐに毒物を手に入れられるよう
な状況ではない。
 決定―――絞殺する。これならありふれたものでも血痕などを残さず殺せ、なおかつ処
分も容易になる。紐などを使うのであれば燃やしてしまってもいいだろう。灰になってし
まえば何もかもごっちゃになって区別などつかない。
 だいぶ決まってきた―――そのことに歓喜を覚える。一本の煙草が私を黒い賢者に変え
てくれる。暴力衝動に興奮する脳と、冷静に思考する脳とが足並みを揃えて私にあらゆる
情報を整理して供出してくれる。
 殺害場所は―――殺す相手の家がいいだろう。車もそのまま使えるし、嬉しいことに相
手は一人だ。あとは人目にさえ気を遣えばいい。問題は不在証明をどう作るかだった。
 その場に居ず、相手を殺す―――さあ、この難題をどう解くべきか。
 いつも長い時間をかけて詰まる地点だったが、今の私ならばそれほど時間はかかるまい。
 そこまでたどり着いたところで、時計の鐘が鳴った。
 背筋が冷えた。
 ―――時間が、無い!!
 急いで思いついた計画を紙の上に纏めようとする。が、時間が無い。整理しきれない。
鐘の音に冷やかされて再び頭の中に靄がかかる。苛立ち、焦燥、恐怖―――全て溢れ出し
てペン先を折らんばかりに指先へと集まる。
 自制しなければ。ペンは高い。インクも飛び散る。ますます時間がかかる。それは困る。
 状況を想像し、イメージをなぞり、全てを分かりやすく丁寧に、且つイメージを全て表
すようにして文字へと写す。重要な記憶だった。言語の一文字たりとも、映像の一枚たり
とも逃してはならない。
 しかし―――嗚呼、しかし、時間が無いのだ!!
 早く実行しなければ。
 必死に、叩きつけるようにペン先を振るう。時計の秒針はそれを嘲笑うかのように音を
立てて進んでいく。無常だった。まるで断頭台の刃がゆっくりとせり上がっていくように
も感じられた。首級を置かれているのは私だ。一瞬で切断されるのを待っている。
 厭だ。それだけは厭だ。
 また血を吐くほど苦しむのか。また頭痛にさいなまれ続けるのか。
 懊悩も人を殺す。強すぎる感情は脳を破壊するのだ。
 急がなければ―――ならない。
 そうして暴走し続ける私の手を止めたのは、冷たい電話の着信音だった。
 甲高い蝉のようにせわしなく鳴き声を上げるそれは、確か廊下を出てすぐの場所に置い
てあった黒電話のものだろう。いつも聞きなれている音だが、この時だけは首切り刀を研
いでいるように聞こえる。神経が磨り減ってなくなりそうな気分になった。いっそ無くな
ってしまえば良かった。
 ふらりと、幽鬼のように立ち上がって、恐る恐る電話に近づく。
 遅かった―――そう、全ては遅かったのだ。
 せめてあと一日あれば、あと一時間あれば、追跡者の悪夢から逃れることは出来たのに。
 待ち受けるものは、死だ。
 受話器を持ち上げる―――まるで、拳銃を手にとって、こめかみに当てるように。
 取らなければ良かった。これでは自殺じゃないか。
 しかし、もう引き下がれない。
 覚悟を決めて、私は干からびた喉の奥から声を絞り出した。
「―――もしもし」

「○○先生ですね。締め切り今日なんですけど―――まだ原稿上がりませんか?」

 当然、落とすことになった。






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