『幽霊はプラズマ。妖怪は何かの見間違い』な科学万能の人間界から非科学的な大結界で隔離封印された地があった。 平和だったり妖怪が跋扈したり楽園だったり人が喰われたりするその地の名は『幻想郷』。 明治の昔に閉じられ、人々より忘れ去られたこの地には、洋の東西を問わず幻想と化した妖怪達と、強い人間達が暮らしている。 そんな幻想郷は危険地域にして名所のひとつに、霧の湖はある。 その名前通り頻繁に霧を纏うこの湖は、歩いて一回りするのに一刻ばかりの広さと、点々と浮かぶ小島、深々とした水深、新月の夜に現れる怪物魚、そして妖怪、妖精を引きつける居心地の良さを持っていた。 氷の妖精『チルノ』や詳細不明の強い妖精、通称『大妖精』を筆頭に妖精たちが遊びまわるこの湖の畔に、吸血鬼『レミリア・スカーレット』を当主を務める紅いお屋敷『紅魔館』は建っている。 窓の少ないその洋館は外の世界から屋敷ごとやってきた為か、周りの景色から酷く浮いていた。なにせ東洋情緒豊かな湖の横に建つ洋館である。和洋折衷の幻想郷とはいえ根底にあるのは東洋文化だ。帯びる空気の間で不和が起こり景色から浮いてしまうのは仕方が無いといえた。 それはさておき。 ――紅魔館にはいくつかの特徴的な施設がある。 一つ目は遠目から見ても分かる大きな鐘付きの時計台。 立派な作りをしているが、鳴るのは主が活動する真夜中だけという夜は寝る時間の面々には迷惑な代物である。 二つ目は幻想郷で最も本が集まっていると言われる大図書館。 地下に存在するそれは空間の拡張固定が行われ、屋敷の敷地以上に広大なものになっている。一般には公開されていないのに司書がいるという贅沢な図書館だ。 三つ目は屋敷の正面にそびえる大きな門。 広大な敷地をぐるりと囲む塀に設けられた正門は、館の外観に相応しいつくりをしたその身で屋敷を守るべく堂々と立ちはだかっている。 そしてその門をさらに守るために、どうにも人間くさい中華風妖怪がそこで番をしていた。 ――昨日までは。 「寒イ……寒イ……」 今日、正門の前にいるのはちっこい悪魔の少女だった。 分厚く重そうなトレンチコートを着込み、折り畳み椅子に座った背中には黒い翼が生えている。ショートカットの赤い髪から飛び出た尖った耳と、頭に左右一対で生えた小さな翼、さらにトレンチコートの裾からのぞく悪魔の尻尾が先ほどの言葉を裏付けるかのように震えていた。 「ちくしょー。なんであたしが門番なんてしなきゃなんないのよー」 少女はぼやき、厚手の手袋をはめた小さな手で両耳を撫でた。 暦は春を近くに数えていたが、まだまだ寒い。刺すような寒さはなりを潜めたが、優しく撫でるような暖かさはまだ現れていなかった。 「あたし暑いのは耐えられるけど寒いのはダメなのにぃ」 吐息を白く染める冷たい外気に少女は身を竦め、首に巻いたマフラーの位置を少しでも暖かくなるように調整する。……あまり変わらない。 「うーちくしょ。あのチャイニーズおっぱいめ。なんであんなスリットの入った服一枚と上着だけでこんなとこ居られんのよ。カイロか。あの揺れるおっぱいと上物の尻にはカイロが入ってんのか。えいちくしょ。後で揉みまくっ……ふぇっくしゅ! う゛ーさびぃ……」 すんと鼻を鳴らし、少女は冷たさで赤くなってきた頬をさすった。 「あーもー。天気は良くないし寒いから居眠りもしにくいしサイアク。……いや、無風な分まだマシかな。これに風まで上乗せされたらあたし穴掘るよ。掘っちゃうよチクショウ」 独り言を辺りにバラまきながらトレンチコートのポケットを探り、少女は小さな紙箱を取り出した。 赤と青みがかかった銀の二色で全体に縦縞模様が施されている。表の真ん中にはマスコットらしいデフォルメされた女性の顔が描かれていた。薄い水色の髪を頭頂部左よりに赤い髪留めで束ねて尻尾を作っている。顔には穏やかな笑みを浮かべていた。 「こう寒いと一本ぐらいくわえなきゃやってらんないわ」 手袋を付けたまま器用に紙箱を開け、中の紙袋を切り開いて少女はお目当てと対面した。箱ごと軽く上下に揺すり、ちょうどいい具合に出た一本を摘んで口に運ぶ。 舌の上でとろける甘さが少女の頬を緩ませた。 「……おいち」 コーティングの溶けたスティックをポリポリかじると心地よい香ばしさが広がっていく。 「んー……。やっぱいいねえ」 チョコレートコーティングの甘みが舌を撫でる度、プレッツェルの香ばしさが口中を漂う度に少女は幸せそうにその尖った耳と頭の小翼をパタパタさせ、尻から生えた尻尾を振った。 幸せを長引かせるかのようにゆっくりと一本目を食べ、少女は二本目にかかった。持つところが残る程度にチョコレートでコーティングしたプレッツェルを摘んで抜き出し、「あー……む!」とばかりに口を運んでかぶりつく。ぽきぽきぽりぽりと今度は瞬く間に食べ尽くし、にへらぁと顔を緩ませた。 「アホ毛サイコー」 寒さを忘れ、悪魔少女こと小悪魔三姉妹が二番目『子悪魔ここぁ』は三本目の『神綺ちゃんのアホ毛』を口にした。 「……しかしなんだね。あたしは図書館司書として契約したはずなのになんで門番やってんだろ」 シガレットのようにくわえたチョコ菓子をぷらぷらさせつつここぁはつぶやいた。 彼女の仕事は図書館司書だ。図書館の主『パチュリー・ノーレッジ』に召喚され、そう命じられたあの日から。 罠の設置や工作もやるが、それは防犯対策の一環で司書仕事の延長上にある。 そして門番は司書仕事の延長上にない。 ここぁは小さくため息をついた。 「こぁ姉にお願いされちゃイヤとは言えないもんなぁ。……まぁもらえるモンもらえるからいいけど」 口元で弄んでいる稀少なチョコ菓子がその『もらえるモン』だった。 魔界名物『神綺ちゃんのアホ毛』である。 ここぁの故郷とは別の魔界の名菓で、比較的入手が容易いポッキーより太くたくましいのが特長だ。美味しい上に食べ応えもあるためここぁが以前暮らしていたところでは、高価にしてそれでも人気のある菓子だった。具体的には神綺ちゃん一箱でコンビーフ三缶と交換できた。コンビーフ一缶に値千金の価値があった、凍てつく東部の心暖まる思い出だ。 「魔女のバァさんの呪いも今じゃ懐かしいねぇ……」 しみじみと言ってここぁはチョコ菓子を手向けるように掲げて、食べた。ぽりぽりと。誰かの分まで代わりに。 そうして三本目を食べ終え、さて四本目を食べるかどうか迷ったところで…… 「あれ。いつものとちがう」 寒いヤツが現れた。 ここぁは溜息をつく。この寒いのにわざわざ来んなよなぁ。 「いつもの門番は図書館でお仕事中」 一瞥をくれ、無愛想に言ってここぁは四本目を口にした。歯で挟み、ぷらぷらと弄ぶ。 「ふーん。ところであんた誰?」 霧の中から現れた寒いヤツは物珍しげにここぁを見つつ近くへ寄ってきた。 ここぁは心中で舌打ちしてどうでもよさそうに答える。お寒い妖精の相手などしたくなかったが、構わなければ構わないでまた五月蝿そうだった。 「子悪魔ここぁ。普段は図書館で司書やってる」 「あたいはチルノ。普段は湖で氷精やってる」 えへんとばかりに両手を腰にやり、寒いヤツ改めチルノは薄くて小さな胸を反らした。 やれやれとここぁは思った。 (不敵さだけなら霧雨のとドッコイだな) ぽりぽりと咥えたチョコ菓子を齧りつつチルノを分析する。実際に言葉を交わすのは初めてだが、ここぁはチルノを一方的に見知っていた。 買い物に出掛けた途中で見かけたり、門番の『紅美鈴』から茶飲み話で聞いたり、といった具合に。 チルノはここぁの目と鼻の先まできて、無遠慮に顔を覗き込んできた。 「何食べてんの? お菓子? おいしい?」 「食べる?」 ん、と咥えたチョコ菓子を向けて、ここぁはチルノの質問を問い掛けで返した。 「質問を質問で返すなぁぁ!」とどこぞの殺人鬼なら怒りそうだったが、 「くれるの!?」 チルノはそんなことより目の前のチョコ菓子らしい。 わくわくキラキラと瞳を輝かせ、「あ」と何かに気づいて消沈した。 「でも大ちゃんから『知らない人からものもらっちゃダメ』って言われてたんだ」 反射的にここぁがつっこむ。 「人じゃないし」 「あ」 「あたしここぁ。図書館で司書やってる。チルノはあたしのコト知ってるっしょ」 「んー。さっきだけど知ったね」 「じゃ知らない人じゃあないね?」 ――屁理屈である。 「そうだね!」 チルノにはそれが理解できないのだ。 あるいは、神綺ちゃんの魅力に負けたとも云う。 「じゃ目ぇ閉じてあーんして」 言われるがまま素直にチルノは目を閉じて口を開いた。 「あーん」 (無防備に口開いちゃってまぁ) ここぁはほくそ笑んで、トレンチコートのベルトに引っ掛けた左腰のポーチから銀色のシガレットケースを取り出して開いた。ケースの中には、赤い粉が塗布された見るからに辛そうなフライドポテトスティックがきちんと並んで鎮座していた。ここぁ御用達の悪戯アイテム、超激辛スナック――通称『暴君』である。 悪戯心に誘われるまま、ここぁは赤くて激しく辛い暴君を三本まとめてチルノの口へ放り込んだ。 チルノは口中に飛び込んだものをぽりぽりもぐもぐと反射的に咀嚼して…… 「クケェェェェェェェェェェェェェェェェ!!!」 炎上した。湖上の氷精が口から火を吐いてどたばた走り回る。 「ほぁー! ほはあああああ! ほんはあああああ!!」 「あーっはっはっはっはっは!」 その様を見てここぁは膝を叩いて笑った。この愉悦がたまらないから悪戯は止められない。 「はがらかららららあかかかいあたああ」 不意打ちで劇物を食わされたチルノにしてみればたまったもんじゃない。辛い熱い痛いの三拍子が口からスタートして頭の天辺から爪先まで走り回る。 ひゅごーひゅごーと氷精なのに火を吐きながらチルノは悲鳴をあげて霧の中へと走り去っていった。 ここぁの視界から消えて数秒後、チルノが走っていった方角から、だっぽーんという水音がした。 「あひふへふふふふひー……あー、湖に飛び込んだか」 氷精飛び込む水の音を聞いて、ここぁはようやく馬鹿笑いを止めた。身体を震わせ、笑みがまだ残る顔のまま、タバコのように咥えた神綺ちゃんを齧る。 「あー、笑いすぎてお腹痛い」 お腹を擦り、目尻に浮かんだ涙を拭いた。そしてチルノに感謝する。門番仕事の退屈を僅かな時間とはいえ紛らわせてくれたことに。 ここぁは自分の顔が緩みっぱなしになっていることを感じた。チルノが火を吐いて走り回る光景が面白すぎてなかなか脳裏から消えてくれないのだ。 「やっだなー変なヤツだって思われちゃう」 言葉とは裏腹にここぁは楽しそうだった。 そして消えない笑みにまぁいいや、と思った。くつくつにやにまとした顔のまま椅子の背もたれに寄りかかる。 どうせ誰も見ていやしないのだ。せいぜい寒い中ノンキに笑ってるさ。 背もたれに体重をかけられ、四本足の折り畳み椅子が前足の二本を浮かせた。 「それにしても……あー、おっかしい」 チルノが口から火を吐いて走り回る光景が脳裏をよぎり、ここぁはふんぞりかえってケラケラクススと思い出し笑う。身体を預けられた折り畳み椅子がきいきいと悲鳴のような軋みを立てた。 ――そこへ霧の中から轟音一発。 46センチ砲の砲声のような凄まじい音に不意打ちでぶん殴られ、ここぁは椅子ごと真後ろへひっくり返った。 「な、何……?」 倒れた拍子にぶつけた頭を擦りつつここぁは起き上がる。 音の方向と特徴から見るにどうやら湖から何かが飛び出してきたらしい。 「って、チルノしかいないじゃんそんなの」 ここぁは神綺ちゃんと暴君を手早くしまい、倒れた椅子を起こしてその影に屈み、様子をうかがった。 「ここぁぁぁ!! てんめぇーーーーーーーーーー!!」 怒声と共に突っ込んでくるは怒り心頭で顔を真っ赤にしたチルノちゃんである。 「あらやだ逆恨み?」 しれっとここぁ。 「誰が逆恨みよっ!」 「頭から湯気噴いてるチルノちゃん。まま、落ち着きなって。お菓子あげるから」 と、ここぁは神綺ちゃんをちらつかせた。 「二回も騙されるもんか! 氷付けにしてやるっ!」 が、チルノは止まらない。ここぁを狙って氷の礫を散弾状にぶっ放した。 「おぇっ!?」 流石のここぁもこれには慌てた。氷精の礫を相手に折り畳み椅子など遮蔽物にもならない。 ここぁは地を蹴って右へ飛び退いた。一瞬の差で礫の範囲から逃れる。 逃げることの出来ない折り畳み椅子は氷の礫をしこたま喰らい、その表面を薄氷で凍てつかせた。 「おーコワ……」 「避けんなあ!!」 飛び退いたここぁを狙って、チルノはさらにアイスショットガンをぶっ放す。 「無茶ゆーな!」 散弾の範囲内から逃れるべくここぁは横っ飛び。爪先ギリギリのところを氷弾が抜けていく。 手をついて転がりながらここぁはチルノへと目を向けた。回る視界の中、チルノが第三弾を放とうとしているのを目視で確認。 こりゃマズい。 「死ねよやぁ!!」 バッとチルノの右手が氷の散弾を吐く。 ほぼ同時に、ここぁは脚と背中の翼を使って空へ飛び上がっていた。広がりきる前の散弾が靴底ギリギリを掠め、ここぁの足と肝を冷やす。 避け切れた、と僅かに緊張を緩めた刹那、 「チベきゅうっ!?」 氷散弾の一発が、小振りなお尻から生えた尻尾を捉えた。 靴底より下へ伸びていた尻尾は散弾の範囲から脱出していなかったのだ。 凍てつく冷気が敏感な尻尾から、これまた敏感な尻尾の生え際を伝い、そして背筋を経て頭の天辺まで、ここぁの身体を貫いた。 『凍らせ屋』チルノの一発はここぁの背筋(スパイン)を見事に凍てつかせた。一瞬動きの止まったここぁへ、チルノは一気に畳み掛ける。 「もらったあ!」 両手で氷散弾を撃ちまくりながらここぁへ向かって突っ込んでいく。 動きの止まったところに雨霰と撃ち込まれ、ここぁは回避の余地なく氷散弾を喰らうことになった。被弾した箇所に氷が張り付き、ここぁを氷像に変えていく。 チルノは真っ先に翼と脚を氷漬けにした。慣れてやがる、とここぁは分析する。逃げ足を潰してそれからとどめを刺すつもりだ。 脚と翼を封じられたここぁは飛行不能に陥り、離陸数秒で墜落した。うつ伏せで落ち、地面に突っ伏すここぁへチルノは容赦なくアイスショットガンを連射する。 一通り全身に氷散弾を受け、ここぁは脚から背中までを氷で染め上げていた。 身動きしなくなったここぁを満足げに見、チルノは腰に両手をやってふんぞり返った。えっへん。 「あたいってば最強ね!」 いえーい。ぴーすぴーす。 などと調子に乗るチルノを感じながらここぁは寒さの侵食でぼんやりとし始めた頭で思った。 (あたし寒いの嫌いなんだけどなぁ……) 凍てついた箇所から冷気が沁みこんでくる。亡国で生まれて死に、魔界で蘇生したトレンチコートは素晴らしい防寒性を持っていたが自然の結晶である妖精には勝てなかったらしい。 勝ち誇り高らかに笑うチルノをちらりと見てここぁは思う。 ――さて。亡国の遺産は妖精に対する守りでは負けたが、逆に攻めに出てみれば勝てるだろうか。 ごそ、とトレンチコートの懐中に抱いた右腕が動く。 うつ伏せ状態だったことが幸いして、ここぁの被害は背面のみに留まっていた。背中は氷と霜で凍てつき、ペキペキのシャリシャリだが腹側は無事だった。 そこに忍ばせていた武器も無事だ。門番代理で外に出されると聞いたここぁが私物より引っ張り出した武器である。 普段は図書館内に仕掛けた罠を駆使して務めを果たすここぁは、図書館の内ではともかく外では弱い。非力さを補うための罠の構築が大きく制限されるためだ。 そこで今回門番の代理をやらされることになったここぁは罠の代わりに武器を持ってきた。いつも持ち歩いているスローイングダガーと爆発物の他に、オイタをする不届き者を思い切りぶん殴るための切り札たる武器を。 一発こっきりの使い捨てだが問題ない。スペルカードだって同じようなものだし、一発で倒せばいいだけの話だ。 ここぁは懐中の武器を右手に掴み、身体で隠したままばれない様にチルノへ狙いを定めた。本来は照準機を覗き込む必要があるのだが、ここぁにはなかった。東部でも西部でも飽きる程に使い、熟練しているためだ。それはもうウンザリするほどに使った。おかげで今では精密に狙わなくても、二発同時に撃っても、当たる。射程内なら必中だ。 「よーし踏んづけて人生の勝利者気分味あって負け犬気分味あわせてりゅーいんをさげてやる」 と、大またで歩いてくるチルノ。 (んじゃ、こっちはきつい一発を喰らわせてやるとしますか) と、ここぁ。 チルノが左側方三メートル――頭を十二時とした場合、九時の方向――に来たところでここぁは身体の下から切り札を突き出した。同時にボタンを押し込む。 ここぁの耳に聞き慣れた発射音が聞こえ、チルノの顔面に握り拳より二回りばかり大きい鉄の塊――パンツァーファウスト(対戦車拳骨)――がぶち込まれた。 「ぶぱ……」 何のアクションも取ることが出来ないまま、鼻高々のチルノは鼻血を噴出しながら後ろに倒れ、気絶した。 右手に発射筒の鉄パイプをぶら下げて、のそのそとここぁが立ち上がる。頭にお星様を浮かべて気を失っているチルノに向かって歩き、見下ろした。 「負け犬気分を味“わ”うのはアンタだったわね」 大の字に倒れたチルノへ発射筒を放り、ここぁは神綺ちゃんを咥えた。 「やっぱりガキをシメるのは拳骨に限るわー」などとお前が言うなと誰かに突っ込まれそうなことを呟き、ぽきんと齧る。 嗅ぎ慣れた火薬の匂いが、高熱ガスと発射煙の交じり合った残滓と一緒に風に吹き散らされていった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ――紅美鈴曰く、「もうちょっと年取ったら色んなことに使えそう」 右を見ても左を見ても、見渡す限り本棚が広がる空間。本をいっぱいに納めた本棚からは古書特有の芳香が漂っていた。 ここは紅魔館の地下に広がる魔法図書館。古今東西幻想郷内外の本が集積する知識の坩堝。 そして、知識と日陰の少女『パチュリー・ノーレッジ』、その使い魔である『小悪魔三姉妹』が支配する領域である そんな魔法図書館に少々珍しい姿があった。 赤の強い茶色の長い髪。滑らかな曲線を描く胸の膨らみ。きゅっと締まった尻。そして健康的なナマの脚線が麗しき、紅魔館の名物門番、紅美鈴である。 書を嗜むより身体を動かすことを好み、余暇はもっぱら園芸か酒と飲茶に使う彼女が図書館にいるのは珍しい。 さて、そんな美鈴が図書館で何をしているのかといえば。――戦っていた。 人差し指と中指の先を親指の胴で押さえ、親指の頭を残りの指で包んで拳を握る。通常の正拳とは違う、異様な握り。 通常の打撃では堪えない相手に対して徹甲弾の様な効果が見込める隠し手である。 武術の達人である紅美鈴は、そんな危険な隠し手を眼前の相手、赤い髪の悪魔に対して…………容赦なく振るった。 左腕を前にした半身の構えから一足で飛び込み左の拳を一閃する。美鈴の人差し指と中指が、最短距離を最速で駆け抜けて楔のように悪魔の喉を穿った。喉を潰された悪魔が呼気を漏らすより早く、美鈴は次撃を放つ。腰の入った右の拳が悪魔の鳩尾へ突き刺さり、立てた二本の指が急所を一際深く抉った。 正中線上の急所二箇所へ電光石火の二連撃。 決め手に等しい攻撃を叩き込みながらも美鈴は攻撃を緩めない。左手の握りを解いて、崩折れそうになる悪魔の胸へ掌底を掠め当てた。 前に崩れてくる悪魔に合わせて角度と威力を調整した掌底打ち。掠め当てることで威力を減衰させ、前にも後ろにも倒れることを許さない練達の業。 さらに美鈴は掠め当てた掌底打ちの勢いのままに身体を泳がせた。そのまま独楽のように回り、すらりとした美しき脚線を凶器と変えて跳ね上げる。 ――後ろ回し蹴り一閃。 強烈なとどめの一撃を顎に喰らい、悪魔は宙へと浮いた。赤い髪を靡かせた黒い長身が弧を描き、赤い絨毯敷きの床に背中から落ちて弾み、転がった。 蹴り足を戻し、美鈴は蹴り飛ばした相手を見る。うつ伏せに倒れた悪魔は右腕を突き、左腕を立てて、もう起き上がろうとしていた。 「うわ頑丈。アレくらってまだ立つんだ」 呆れた様に美鈴は言う。その声と表情には僅かながら疲労の色が見て取れた。 「模擬戦とはいえ少しは加減しなさいよ」 少し離れたところで観戦していた紫色の人影、改めパチュリーが言う。 「って、加減しなくていいって言ったのパチュリー様じゃないですか」 そんな理不尽な、と視線で語りつつ美鈴は反論した。 「思いっきりやっていいとは言ったけど加減しなくていいなんて言ってないわ」 「それなんて屁理屈?」 たり、と美鈴の頬を汗が流れ、床ではなく衣服の胸元に落ちた。 「ほらほらさーどが起きるわよ」 パチュリーの言に、ため息交じりで苦笑して美鈴はぬう、と起き上がった悪魔へ目を向けた。 「あ゛、あ、あー。ぅーぁー。紅(ホン)先生痛いこぁ。クビがもげるかと思ったこぁ」 こぁこぁと特徴的な語尾でしゃべりながら悪魔の少女は首を回した。セミロングの赤い髪が動きに合わせて流れる。 「さーどちゃんのタフさには先生参っちゃうわ。咽喉に水月に顎。三箇所にぶち込んだのにケロッとしてるんだもの」 「してないこぁ。痛いこぁ。のた打ち回って悶絶したいぐらいに痛かったこぁ」 けろりとした顔で答える、悪魔こと小悪魔三姉妹が三番目『小悪魔さーど』。 「そうは見えないけど……まぁ、いいか。それじゃ今日はこの辺でおしまい」 構えを解いて美鈴は拍手のようにぱんと手を合わせた。 「ありがとーございましたこぁー」 ぺこりとさーどは頭を下げる。美鈴はさーどへ近づき、頭を上げたところを軽く撫でて図書館から去っていった。 美鈴に撫でられたところをぺたぺたと触るさーどのところへパチュリーがやってきた。咽喉と顎、その他美鈴に打たれたところへ視線をめぐらせ異常がないことを確かめる。 「あんたの頑丈さも大概ね。そうなるように作った私が言うのもなんだけど」 「こぁ」 「そのローブはどう?」 「こぁ?」 ぴ、と指差され、さーどは自身の着ている衣服を見下ろした。さーどが今日着ているのは黒と白の二色を基調に仕上げたゆったりとしたローブである。当初は他の小悪魔二人同様に司書服を着せる予定だったのだが、身長が高すぎて他のサイズからの流用が厳しく、別口で用意することになってしまった。それならば司書服に拘らずもっと別のものを用立てるのもありだ、というわけでローブがあつらえられることになった。勿論理由あってのことである。 「動きやすいこぁ」 くるくるとその場で回り踊るさーど。黒いローブの裾がふわりと舞う。さらに動きやすさをアピールするかのようにハイ、ミドル、ロー、ヤクザ、のキックを披露して見せる。重量のある安全靴を履いているというのになかなかのキレがあった。 「三度の模擬戦に全て黒星。しかし問題はローブにあらず、と」 口頭で確認しつつパチュリーはメモを記した。 「紅先生つえーこぁー」 「普通の手合いが相手じゃザルだけどね。格闘に限ればレミィとだっていい勝負するわ」 図書館の小悪魔が二人から三人に増えて――パチュリーがさーどを錬成して――から一ヶ月ばかりが過ぎた。 この間に、魔法図書館は持ち出し禁止図書を強奪する霧雨魔理沙と九度目の戦闘を繰り広げ、初めて独力で魔理沙を撃墜することに成功した。 魔法図書館側は撃墜、捕縛した魔理沙と“交渉”し、入館および図書貸出についての契約を改定。これにより図書館の平穏を乱す種の一つが解消された。 パチュリーは“とっておき”をいくつも用いて作り上げたさーどの戦果にいたく満足し、さーどのさらなる能力向上を打ち出した。 エレメンタル・ハーヴェスターを手にさっそくオペを始めようとしたところで待ったがかかった。 さーどは生後まだ一ヶ月ばかりのほやほやベイビーであり、同時に貴重な錬成成功例でもある。 現段階でワンオフものの使い魔ちゃんである。掛けたコストと能力を考えれば、万が一にも失敗からの廃棄処分コース行きは絶対に避けねばならない。 回転鋸を用いての大味な改造手術なんて以ての外である。 よってパチュリーは身体強化によるさーどの能力向上計画を凍結し、肉体を最大限に活用する術を習得することでの能力向上計画へとスイッチした。 『ハードウェアの強化は図れないからソフトウェアを強化しよう』というわけだ。 そこで美鈴に白羽の矢が立った。武術の達人であり、紅魔館有数の実戦経験者、なおかつ暇で扱いやすいと最適の人材だったのだ。 そんなわけで美鈴は門番の仕事を代打のここぁに任せてさーどに格闘および戦闘の手解きをすることになった。 図書館で格闘戦を繰り広げていたのはそのためだ。 「思いっきりやっていい」とパチュリーに一任された美鈴は、宴会が続きに続いた夏に「アンタ格闘強いからハンデとしてこれを穿け」と押し付けられた拘束具の下穿きを脱いでさーどを鍛えていた。 教えるスタンスが「実戦に勝る経験なし」、「考えるんじゃない、感じるんだ」のため、いい師匠になっているかどうかは怪しかったが、さーどはさーどで模倣する能力に優れていたのでそれなりの結果にはなっていた。 「『かるきをもって重きを制し、おそきをもって早きを制す』……よくわかんないこぁ。とーよーのけんぽーはめんよーこぁー」 「あんた自分で何言ってるか分かってないわよね?」 などとやり取りを交わしていると、もう一人赤い髪の小悪魔がやってきた。 「パチュリー様、さーど、お昼ご飯が出来ましたよ」 腰まであるストレートの赤髪に尖った耳。丸眼鏡を掛けた金色の瞳。黒い司書服を着こなしての楚々とした佇まい。――絵に描いたような図書館司書振り。 小悪魔三姉妹が一番目『小悪魔こぁ』である。 「ん……わかった」 「わーい。おひるごはんこぁー」 「ちゃんと手を洗うんですよー」 子供のように走っていくさーどに一声掛けて、こぁは食事へ向かうパチュリーの横へ並んだ。 「咲夜さんから図書館運営予算について突っ込まれました。特に――食費と雑費について」 そのときのやりとりを思い出したのだろう。こぁの表情は少々暗い。 「食い扶持が一人増えたんだから出費が増えるのは当たり前でしょう」 「『ならその分働いていただかないと困ります』だそうです」 「むきゅ……」 もっともだった。 そもそもパチュリーは紅魔館においてそこまで大きな権限があるわけではない。階級ピラミッドでいえば上から三番目、あるいは四番目だ。 当主『レミリア・スカーレット』を頂点に据え、一段下かあるいは同列に悪魔の妹『フランドール・スカーレット』、その下に当主の親友であり紅魔館の問題解決役兼問題起こし役のパチュリー、そしてさらにその下にメイド長『十六夜咲夜』が来る。 この三段目と四段目が微妙なところだった。 当主の親友という位置づけならパチュリーが上に来るが、紅魔館問題解決役(問題起こし役)となれば咲夜が上に来る。 他にも、パチュリーの行いが紅魔館の運営に支障があるとなれば、これまた運営を委任されている状態の咲夜が上となる。 当主自らが館の屋台骨をへし折るならまだしも、その親友が食い尽くす分には看過できないのだ。 ――今回のケースでは咲夜が上位に立っていた。 「働け、って言ったってどうしろっていうのかしら」 困ったようにパチュリーがぼやく。 「とりあえずおつかい要員がほしいらしいです。それも出来るだけいっぱい荷物を持てる人」 そんな人いましたっけ、とこぁ。 「あきらかにさーどを要求してるわね」 「え? ……あ。たしかに」 言われて初めて気づいたとこぁは手をたたいた。 「貴女って、普段は聡明なのに時たま変なところで抜けてるのよね……」 「あはは……失礼しました」 「それにしても。さーどにおつかいをさせるなんて……正気かしら」 「はじめてのおつかいですね」 「ちゃんと行って帰ってこられるのかしら」 「地図と航法を覚えさせれば大丈夫ですよ。あの娘は記憶力いいですから」 「でも覚えたことを引き出すのは苦手よね」 「……特に戦闘が絡まない場合はかなり苦手ですね」 おかげでさーどは司書仕事が殆ど出来ない。もっぱら本棚へのはたき掛けや毛玉駆除、放置書物の回収が仕事になっている。 「おつかいなんかできるのかしら?」 「たぶん、きっと、なんとか……?」 どうにもダメそうである。 ダメそうではあるが、さーどをおつかい要員に要求したのは咲夜である。それならば責任も咲夜に帰着するだろうからまあいいや。 図書館組二人はこんな結論を出した。 「フフフフ、咲夜、聞こえてはいないだろうけど貴女の迂闊さを呪うことね」 「なに? 迂闊ですって?」 「貴女はいいメイドだったけれど、もう少し融通を利かせるべきだったわ」 「パチュリー様!? 図ったなパチュリー様!」 「フフフフ、ハハハハハ」 それにしてもこの主従ノリノリである。 そんなわけで小悪魔さーどは後でおつかいに出されることになった。 よりにもよって行く先は危険地帯のマヨヒガ八雲家なのだが、それはまた別の話である。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ――十六夜咲夜曰く、「まぁ能天気なのは良いことですわ」 パチュリー、こぁ、さーどの三人が昼食を囲んでいる頃。ここぁは外で門番代理を継続していた。 チルノに凍らされたマフラーを外し、トレンチコートを脱ぎ、その下のブラウスにベストの司書スタイルを寒空の下に晒している。 ここぁは身体を抱いて、ブラウスに包まれた腕を撫でた。 「……寒いぜベイビー」 ぼやいてしゃがみ、目の前の小さな焚き火に手をかざす。小さくても焚き火は焚き火だ。暖は取れる。 ここぁは霜を落とした折りたたみ椅子の背もたれにトレンチコートを引っ掛け、その前に穴を掘って小さく火を焚き、氷を溶かし、乾かしていた。 門番隊が暇つぶしにゴミ拾いやら掃除をしているだけあって、火種になりそうなものが目に入る範囲になく、ここぁは仕方なく手持ちの物資を使って火を起こした。穴の中で固形燃料がチロチロと燃えている。 ゆっくりと溶けるように燃える固形燃料を眺めていた視線を、対面のコートにやる。氷は粗方溶けていたが、生地がまだら模様になっている。水気がまだ残っているらしい。もうしばらくは着れそうにない。 「全くもう。なーんであたしがこんな思いをしなけりゃあいけないのよ」 ため息をついてここぁは焚き火の向こうに目を向けた。そこには対戦車拳骨の一撃で目を回し、ロープでぐるぐる巻きにされたチルノが転がっていた。額には「差し押さえ」と白で書かれた赤札が貼られている。 ここぁは撃破したチルノを捕獲して、迷惑料代わりにさーどの相手をさせようと目論んでいた。以前に美鈴が「さーどを強くするには色んな相手とやらせて経験値を稼がせるのが手っ取り早い」と言っていた事を受けてである。 さーどの相手役に、チルノは実に丁度いいと言えた。強過ぎず、弱過ぎもしない。 「あと馬鹿なところも丁度いいかぁ?」 そう言ってここぁは笑った。 生後一年未満の経験値の足りなさがそうさせるのか、あるいは仕様としてなのか、さーどもなかなかに馬鹿だった。 美鈴から「猪突猛進じゃ勝てないよ。少し、頭使おうか」と言われ、迷うことなく組み付きから頭突きのコンボである。 確かに頭を使っていたが、それはどうなのか。 他にも、落としたコインを拾おうとして隙間に手を入れて握り締め、「ぬ、抜けなくなったこぁ! 助けてこぁー!」となかなかの馬鹿加減を見せている。 ちょっとした謎掛けに頭を抱えるチルノとどっこいどっこいの馬鹿具合かもしれない。 「バカばっか」 「誰がバカなのかしら」 「ウチの妹とそこの戦闘氷精」 背後から唐突に独り言に割り込まれてもここぁは驚かず、狼狽えもしなかった。幻想郷ではよくあることだ。 「さいですか」 ここぁの隣に長身が座り込んだ。誰なのかは見るまでもない。紅魔館正門を領域とする中国風妖怪、紅美鈴だ。 「って、その格好で胡坐かく?」 「見えないからいいでしょ」 確かに美鈴が纏うチャイナドレスめいた衣服は下着を隠している。――が、スリットからは健康的な素肌の脚線美が伸びていた。 男なら無意識に目で追ってしまうような美しい脚だが、こう開けっ広げでは少々はしたない。 「そんなんじゃ嫁の貰い手つかないよ」 「このぐらいで引っ込むような貰い手なんてこっちから願い下げ」 ひらひらと美鈴は左手を振った。 「ま、妖怪だの悪魔だのって結婚適齢期ないしねぇ」 「そそ。いい人が現れるまでいくらでも。ここぁちゃんも結婚考えたりするの?」 「うんにゃ、あんまりどころか全く考えない。だってさあ……」 そこで言葉を切って、ここぁは隣の美鈴に抱きついた。豊かな胸の膨らみに頬を押し当てて柔らかさを堪能する。 「下手に固定の相手作っちゃうとこういうマネしにくくなっちゃうし」 「作ってなくても人の胸に鼻っ面突っ込むのはどうかと思う」 「よいではないかへるもんじゃなし」 「減らないけど日が高いうちからそういうのはやめて」 美鈴は腕を伸ばしてここぁの尻尾を掴んだ。艶の混じった悲鳴を上げてここぁがびくりと震える。 「ハイ離れる離れる」 背中に電気が流れて硬直した隙に、美鈴は手を割り込ませてここぁを押し退けた。 「ぅー……。尻尾に波紋はひどいよ」 「正当防衛よ」 「過剰防衛だよ」 「ところでそこの雪ん娘どうしたの?」 話題転換とばかりに美鈴はロープでぐるぐる巻きのチルノを指差した。 「襲ってきたんで拳骨叩き込んでやった」 「そこの濡れ凍ってるコートは」 「その折に。……寒いよー美鈴ー」 再びここぁは美鈴に抱きついた。 「しょうがないなあ」と美鈴は上に着ているブルゾンの中へここぁを抱き込んだ。 「あぁ……美鈴のナカ、あったかいよぉ……」 「変な声とセリフはいらない」 「んみぐ」 後ろ抱きの体勢でここぁは鼻をつままれた。うにうりとしばらく遊ばれて解放される。 「うー。伸びちゃったらどうすんのさあ」 「どうもしない。そもそも伸びないし」 「ぶー」 鼻を撫でさすってここぁは唇を尖らせた。 「で、そこのチルノどうするの?」 「持って帰って食べようかなーと」 「お腹壊すよ?」 「オンナノコは別腹ってねん」 「この場合は別腹関係ないのでは」 「ま、ホントのところはさーどの相手役にでもどうかなーって」 「ああ。いいかも。チルノは場慣れしてるからさーどちゃんの経験値稼ぎにはもってこいだわ」 好戦的な性格と妖精の枠を逸した力を併せ持つチルノは、外見とは裏腹にかなり強い。――『湖上の氷精』、『凍らせ屋』、『ナインボール』、『東方の猪突猛進』、『フロッグキラー』、『妖精魚雷』、『アドベントチルノ』――など数々の二つ名がつき、さらには幻想郷で最も恐れられる楽園の最高裁判長『四季映姫・ヤマザナドゥ』とやりあって辛くも撃退したとの噂話が発生する程度には。 その強さを裏打ちしているのが、百戦錬磨の美鈴をして「場慣れしてる」といわしめる戦闘経験だった。 面白そうな相手なら、誰彼構わず勝負を挑み、勝った負けたを繰り返す生活がチルノにもたらした血肉の経験。 これこそがさーどに欠けているものだった。戦闘経験は強さを成り立たせる骨子の一つである。 欠けている経験の無さを埋めるには、戦闘経験の豊富な相手と戦い、自らの肉を通し、血を代価に模倣すれば手っ取り早い。 「色んな相手とやりあえばそんだけ学習するしねえ」 そう言って美鈴に体重を預けるここぁ。 赤い髪が柔らかい緑の枕に埋まる。 (ホント、いいおっぱいしてんなぁ……) 「……あー、美鈴、コート乾くまでこのままでお願いしまっさ」 ベストのポケットから取り出した神綺ちゃんを美鈴に薦めつつ、ここぁは言った。 固形燃料の焚き火が燃え尽きるより少し早くトレンチコートは乾いた。 名残惜しさを振り払ってここぁは美鈴の懐中から抜け出て、愛用のコートに袖を通す。 「大丈夫……かぁな?」 着た上でさらに動いて内部の乾き具合を探る。腕を振り、肩を回し、くるりと回って裾をなびかせて―― 「ん、大丈夫だ」 確認完了。問題なし。 ボタンを留めてベルトを巻き、マフラーを上から身に着けて防寒装備完了。 「最後に回るのは何か意味があるの?」 「様式美」 「さいで」 美鈴の問いを背に、ここぁはロープに巻かれたチルノを担ぎ上げた。 「それじゃ、また」 「またね」 軽く手を振る美鈴にひらひらと手を振って応え、小さな悪魔は身長差の殆どない氷精を門の内へと運んでいった。 チルノを担いで紅魔館の中へ入り、歩く事しばし。 図書館への階段がある廊下でここぁは麗しき銀髪のメイドに出くわした。 「あら、ここぁ」 「あらら十六夜咲夜メイド長」 ちわっすと片手を挙げるここぁ。 モップとモップ絞り器で両手が塞がっていた咲夜は目礼でそれに応じた。そして―― 「……その肩からのぞいてる水色のは、何?」 ここぁの担いでいるものに気づいた。――見覚えのあるその髪の色はいつぞやの氷精のものではなかろうか。 「チルノ」 ここぁから単純明快な三文字の答えが帰ってきた。咲夜大正解。 「この季節に冷房は要らないと思うのだけど」 咲夜が思ったままを口にする。 「なんとかとハサミは使いようと言いましてぇね」 裏路地を根城にする商人のような胡散臭い笑みを浮かべ、ここぁは目を動かさずに咲夜の背後を見た。 咲夜から離れること数メートルのそこには地下へと続く階段があった。悪魔の妹の住処でなく、大図書館へ続く階段である。 ――階段へは数メートル。 ――加速をつければ一秒未満で穴の底。 ――ドアノブを回しなから体当たりで図書館へ飛び込んで、一秒ちょい。 ――反動で閉まったドアが一秒稼ぐとして隠れる時間はあるか? ここぁはいくつかの要素を頭に浮かべて、ザッと計算した。――いけると踏んだ。 「それじゃ。私は掃除があるから」 ここぁが何かを企んでいるとは露知らず咲夜が歩きだす。咲夜が射程内に入ってきたところでここぁは声を掛けた。 「メイド長。後ろ」 「後ろ?」 と振り返る咲夜。誰もいない、何もない。 「とうりゃ」 その蒼いスカートが盛大に捲りあげられた。白いレースが遮るものを失って露にされる。 「――あ、銀髪地毛なんだ」 いたずら小悪魔の声に咲夜の顔は赤熱化した。 「ここぁ!」 スカートを押さえモップを捨てて手を伸ばすが、身を屈めたここぁがその脇をすり抜ける方が早い。 「きゃぅッ!?」 往き掛けの駄賃とばかりに咲夜の尻を撫でて、ここぁは地下への階段に飛び込んだ。 「あーばよーさっきゅーん」 時を止める暇を与えず、電撃的にセクハラをかまして離脱するここぁ。 赤い顔した十六夜咲夜は涙目で拳を握り、穴蔵へ飛び込んだ。 (掃除の予定を繰り下げて、オシオキする。絶対する。仕置き仕る) モップ絞り器とモップをその場に残して、蒼い影が疾り。 「ちょっ、何よこれぇ!?」 直後、地下から悲鳴混じりの叫びが上がった。 ショルダーチャージからのヘッドスライディングで図書館に飛び込んだここぁは、どっこらしょ、と体を起こした。 体を叩いて埃を落とし、背中に担いだままのチルノも落とす。どさりこ、と氷精は床に落ちて広がった。 かなり手荒に扱われているにも関わらず、未だにチルノは寝息を立てていた。 「こいつ、よもや大物か……?」 ここぁの呟きには心底驚嘆の色があった。鉄の拳骨で殴り倒されて眠りにつき、激しいマニューバに揺さぶられてなお目覚めないとは――。 「おっそろしくニブいか、おっそろしく図太いか、おっそろしく大きな器か。この三つね」 親指、人差し指、中指と順に立てつつここぁは言った。 まあきっとおそらく「おっそろしく大きな器」以外だろうなーと思いつつ、姉妹と主従間で使える念話で末妹さーどを呼び出す。 時間を止めてでも時間を作る事ができる咲夜を諦めさせるためにはただ逃げるだけでは足りない。 他に追跡を断念させるだけの要因を作る必要がある。――ここぁはさーどにそれを求めた。 (さーど。……さーどさーど。……さーどさーどさーぁどー) 一度二度三度、応答を急き立てるようにコール。時間稼ぎの策は弄してきたが決して余裕があるわけではない。 (……うっさいこぁー……。お昼寝のじゃまするなこぁー……) 寝ぼけ気味の声が返ってきた。 (昼寝って……まだお昼どきじゃん。あ、食って即寝かこの野郎。じゃない、このアマ) (ねむいものはしょうがないこぁ……ふわぁぁ……) ここぁは、妹の欠伸混じりの返答に肩をすくめた。やれやれである。 (あんた、いい性格になってきたね) (ほめられるとはずかしいこぁ) (褒めてねえ) (こぁ……) (午睡にゃ早い。あたしが眠気を覚ましてあげよう) (覚まさなくてい) (敵襲よ) (……こぁ) 眠気を多分に含んでいたさーどの声は、敵襲の一言で素面のものに変わった。 この辺りのスイッチ切り替えの速さは流石パチュリー謹製の戦闘要員といったところである。馬鹿だけど。 (敵は入り口から押し込んでくる。急いで玄関でお出迎え!) (こぁ! とうほうに迎撃の用意ありこぁ!) 元気一杯士気旺盛の返事を耳に念話を切り、ここぁは足元のチルノを担ぎ上げた。そして入り口を監視できる離れた物陰へ足を向ける。 咲夜とやり合う気はないが、ただ逃げて身を隠すだけのつもりもなかった。それでは楽しみ半減だ。悪戯は相手の反応まで楽しむものである。 そういう訳で、ここぁは安全な場所から高みの見物と洒落込むつもりだった。 ――が、ここぁが隠れるより早く背後の扉が蹴り開けられた。 バムン、と響く破壊的な音にここぁの足が止まる。 「……ここぁ……」 静かな、されど殺気に満ちた声。 ここぁの身体に、尻尾の先から頭の羽の先まで、怖気が走った。 こりゃマズい。 乾坤一擲のフリーガーファウストが不発だったときと同じぐらいマズい。 後は穴だらけになるばかりである。 「こっちを向きなさい」 振り向きたくなかった。全力でこの場から逃げ出したかった。 だが、そんなことをすれば次の瞬間にはナイフが雨霰と襲ってくる。直線的な投擲なら回避できなくもないが、アンビシャスジャックなどの変化球がくればお手上げだ。 防御するにしても、氷精の盾一枚では直接照準しか防げない。同じく変化球のプライベートヴィジョンが来ればそこで終了である。 つまりは詰みだ。 逃げればやられる。 逃げなくてもやられる。 早いか遅いかの違いだ。 観念したのか、ここぁは咲夜から見えるように両手を挙げた。担がれていたチルノが床へ落ちて、踏まれた蛙のような声をたてる。 「振り向け」 強い口調での命令にゆっくりと振り向いた。そして、ヒュウ、と口笛を一吹き。 「やってくれたわねこの悪魔」 ロシアンマフィアの大幹部が如き雰囲気を纏わせたメイド長が腕を組んで佇んでいた。 ……髪、顔、胸、腹、腕、脚――身体の所々に白いゲル状の粘液を張り付かせて。 その様はまるで――――語るまい。 「粘着投網『蜘蛛の巣』。お気に召しまして?」 両手をひらひらと振って、ここぁは嘯いた。その顔と声には喜色が滲んでいる。さっきの怖気はどこへやらだ。 「……掛ける側ならいいかもしれないわ」 ガルムのように笑み、咲夜は顔に張り付いた白い粘液を指先で拭い落とした。 ――粘着投網『蜘蛛の巣』。 読んで字の如く、粘着性を持つ白い液体を塗した投網で蜘蛛の巣よろしく相手を捕獲するトラップの一種である。 ここぁは地下大図書館へ続く階段にこのトラップをいくつも仕掛けていた。それこそ必要とあれば階段を封鎖出来るほどに。 そうとは知らない咲夜は穴蔵に飛び込み、この有様である。 時間操作能力がいくら破格の性能でも、それを行使するのはあくまで咲夜だ。咲夜が対応しようとしなければ、対応できなければ、その能力は発揮されない。 そして、無音瞬展にして回避飽和のトラップは咲夜に対応の暇を与えなかった。ネチョネチョとした網が絡み、張り付いて完全で瀟洒なメイドを白く染め上げた。 咲夜の足を止め、ここぁの目論見通りに時間を稼いだ『蜘蛛の巣』だったが、同時に咲夜の怒りに油を注ぐ事になった。 頭から爪先にまで張り付いた網を苦心の末に斬り散らし、白い残滓と怒りの炎を纏った咲夜・ザ・リッパーは、かくして図書館を強襲した。 蒼き炎の如き怒りを秘めて、咲夜は右手に一本のナイフを構えた。 「さあ、覚悟はいいかしら」 ダークプリズンな台詞にここぁは答える。 「よくない」 「あらそう」 ここぁの即答に咲夜のナイフが三本に増える。 「もしもしお姉さん?」 「ああ、一本足りないわね。手足を全部ぶち抜くには」 四本に増えた。 「いやいやちょっとタイム」 「それとも念には念を入れて飽和攻撃がいいかしら。貴女のトラップみたいに」 咲夜が無数の銀光を背負った。 「ちょっ、待っ、そんなに喰らったら死んじゃう」 「大丈夫よ、心臓と首から上には一本たりとて刺さないから」 嘯く咲夜。目が笑ってない。 「そこ以外ズタズタになるじゃん」 抗弁するここぁ。 「だがそれがいい」 三日月のように嗤い、咲夜はにべなく斬り捨てた。 「よくないよくないよくない」 首を激しく横に振って否定する。 「死なないんだからいいでしょ」 「全くもっていいわけない」 「あら、“言い訳ない”のね。潔いわここぁ」 言葉尻をつかまえ、都合よく誤解して咲夜は微笑んだ。見る者の背筋に薄ら寒いものが走る微笑み。 「ちょ……、今日の咲夜ん容赦ねえー!」 「私の勝負パンツを見てしまった己の身を呪うがいいわ。安心しなさい。刺して刻んで散らした後は記憶がトぶまで玩んであげるから」 三日月の笑みが猛犬のそれに変わる。今にも喉笛へ喰らいついてきそうだった。 「うわめっちゃサドい……」 「何を今更。あの夜……忘れたわけじゃないでしょうに」 サディスティックな咲夜の笑みにここぁが息を呑む。 彼女は以前に咲夜のサディスト加減を身体で味わっている。 トラップの誤爆で咲夜を撃墜してしまった際に、どこにあるとも知れぬ拷問部屋へ連れ込まれ、尻をしこたま叩かれたのだ。 責め苦に泣き叫ぶここぁへ咲夜は、平手、皮鞭、箒尻などなどを容赦なく浴びせ、思う様いたぶった。 そのときの恍惚とした咲夜の声と表情を、ここぁは忘れていない。 そこまでされればトラウマの一つもできそうなものだが、それは人間の尺度。妖怪だの悪魔だのはタフでクールなのだ。 ここぁもしばらくは怯える素振りを見せていたが、数日しないうちに元通りになった。喉元過ぎればなんとやら。そんなもんである。 とはいえ、面と向かって当人からその事を言われれば怯みもする。 だがそれも一瞬。ここぁは咲夜に負けじと笑い、言い返した。 「レミリアお嬢様相手にはバリ受けマゾなのに」 ――咲夜の背に展開されていた無数のナイフが、手に構えていたナイフが、擦れ合う音を無数に奏でて床に落ちた。 かぁぁぁ、と咲夜の顔が赤くなっていく。 「な……っ!? なんで知ってるのよッ!?」 「――あ、本当だったんだ。ハッタリと願望が半々だったんだけど」 だがマヌケは見つかったようだぁねププー、と策士ここぁは笑みを深めた。 担がれた事に気付き、咲夜はハッと口を押さえた。が、後の祭りである。言ってしまった、聞かれてしまった事実はどうしようもない。 「……記憶を消す理由がまた一つ増えたわね」 赤熱化した顔を緊急冷却しつつ、咲夜は両手に飾り気のない大振りな、ナイフというより鉈に類する刃物――マチェットを構えた。 クリスタルレイクの殺人鬼に似合う凶悪な得物を手にした咲夜にここぁは眉根をしかめる。 「記憶どころか命を消す気じゃないのソレ」 「いいかもしれないわね、ソレ」 にぃぃ、と、どこぞの殺人マシーンメイドよろしく狂犬じみた笑みを浮かべる咲夜。 「怖いネェ……」 じり、とここぁは一歩後ずさった。ここは既に咲夜の間合いだった。投げナイフだけでなく、踏み込めばマチェットさえも届く死の間合い。 一足で斬りかかるべく、殺人メイドの腰が静かに沈む。次の瞬間には矢の如き速度でマチェットが振るわれるだろう。 「怖いから、さーどに任す」 ぴ、とここぁは咲夜を、正確に咲夜の後方、彼方上空を指した。 次の瞬間、超長距離から発射されたさーど愛用の飛び道具、『フェニックス』が周辺ごと咲夜を吹き飛ばした。 図書館の空を急ぎここぁの元へ向かうさーどは、数秒前に発射したフェニックスの爆発を視界に捉えた。 「いんぱくと、なぁーう、こぁ」 お気楽にして脳天気な口調で言い、くるんとロールで一回転。 そこへフェニックスの弾着結果が返ってくる。結果は――、命中。 「おー、当たったこぁ」 さーどは驚いたように目をぱちくりさせた。 霧雨魔理沙のマジックナパームを参考にしたフェニックスは、オリジナルに似た外観と優れた威力、そしてオリジナルにはない若干の追尾誘導性を有している。これにより、さーどのフェニックスは良好な命中率を誇っていた。ただし、有効範囲内に目標を捕捉しなければその追尾誘導性は発揮されない。 今回さーどは視界外どころか追尾誘導の有効範囲外からフェニックスを撃っていた。これは方位のみを合わせて目隠しで砲撃を行うに等しい。通常であればまず当たらない。 ――そう、通常であれば。 「ここぁ姉ナイスアシストこぁ」 (さーどのコントロールもねー。きっちり目標だけぶっ飛ばしたー) 「わきゃきゃー♪ かーるいもんこぁー♪」 さーどは追尾誘導ではなく、ここぁが念話で指示した場所を狙って撃ったのだ。追尾誘導の有効範囲よりフェニックスの最大射程が長い事を利用した一種の裏技である。追尾誘導が機能しないため動く相手には使えないテだが、静止目標には十分有効だ。 しかし、この裏技はさーど一人では十分に活かせない。 視界外かつ追尾誘導の範囲外のため、自力では目標が見つけられないのだ。事前に目標の位置が分かっていれば問題ないが、そうでない場合はどこを撃てばいいのかすら分からない。 そこで考え出されたのが念話のチャンネルを介しての情報支援である。例えば、「こちらここぁ。あたしから南に五メートルの位置にお客さん。足を止めておくから爆発タイプ収束でフェニックスよろしくぅ」と、いったように、念話相手からもたらされる位置情報を元に、フェニックスの着弾点を設定するのだ。この方法はなかなか上手くいき、位置情報が正確ならほぼ確実に命中した。 ――そう、ほぼ確実に。 さーどはバレルロールで高度を落としてくるりと一回転、フェニックスの着弾点とここぁの間へ割って入るように降り立った。 「ヴワル88見参!」 「ソレ単騎で言う台詞じゃないから」 決めゼリフをもっともな突っ込みで一蹴して、ここぁはさーどの背後に隠れた。 「それはともかく敵はどここぁ。きっちりとどめまで入れるのがトンキン湾の人食い虎こぁ」 「あんたまた変なもの読んだね。でもって、敵はあっち」 ここぁが指した先に視線を向け、さーどは――固まった。 なにせそこには紅魔館のメイド長、十六夜咲夜がうつ伏せで横たわっていたのである。 「えと、ここぁ姉……」 「何かな妹」 「敵って……」 「うん。さっきゅん」 「さっきわたしがフェニックス当てたのって」 「それもさっきゅん」 しれっと言い切る姉に、ゼンマイの切れた人形のようなぎこちなさでさーどは首を向けた。 「ここぁ姉ぇ……」 さーどは自分がここぁに担がれ、巻き込まれた事を察した。知らなかったとはいえフェニックスをぶち込んでしまった以上、咲夜はさーどを敵とみなすだろう。 さーどの声には泣きが入っていた。 「さーど、前。さっきゅん動き出した」 『見たくないこぁ』と思うものの、本能は『脅威を視認しろサンダース! 死ぬぞ!』と命じている。そして本能は思考を駆逐した。 ここぁに首を向けたときとは対照的な滑らかさでさーどは首をめぐらせ、“紅魔館で最も敵に回してはいけない相手そのに”を視認した。 腕を突き、膝を突き、足を突き……夜霧の幻影殺人鬼が立ち上がった。 ゆらりと幽鬼の如く立ち居、蒼い眼が爛と、だらりと垂らした両手に携えた二刀のマチェットが鈍く、それぞれ剣呑に光る。 不用意に手の届く範囲に踏み入れば、問答無用で惨殺されそうな雰囲気があった。 ――恐ろしく怖い。 「じゃ、さーど。後は任せた」 さーどの肩を背伸びして叩き、ここぁはチルノを引っつかんで反転百八十度。一目散に逃げ出した。速い。クロパトキンより上手いぐらいである。 「ちょっ! ここぁ姉! わたしを見捨てるこぁ! ここぁ姉!」 伸ばした手と悲鳴じみた叫び声はむなしく空を切った。ここぁの姿は影も形もない。スタコラサッサであった。 「ここぁ姉えぇ……」 涙声で姉の名を呼ぶさーどを、 「……さーど……」 死の沼から響いてくるような声が呼んだ。 ――恐い怖いコワい。 「ううわあああ……!」 恐怖で半分泣きそうになりながら、さーどは覚悟を決めて振り返った。 そこには蒼い眼の殺人鬼が一人。交差させた両手に黒塗りのマチェットを構えて佇んでいた。 「邪魔……したわね?」 ぎろりと、蒼い瞳がさーどを射抜く。その姿は死神か、はたまた殺人人形か。どちらにしろ容赦はありそうにない。 「あ……あぁ……」 蛇に睨まれた蛙さながらに、さーどの身が竦んだ。喉が引きつり、指先さえも動かず、膝が震える。 戦闘に特化したつくりをしているさーどだが、思考の一部を占める戦闘中枢が起動しなければその能力は十全に発揮されない。覚悟を決める間もなく戦闘に突入してしまうと、ただ打たれ強いだけの小悪魔でしかないのだ。 咲夜が歩き出す。床に敷かれた絨毯の上を無音歩行。動けぬさーどは音もなく凶手がやってくるのを見る事しかできない。 ――月時計が鳴り始めた。 人気なく静寂が支配する図書館にその音色が響いていく。 「あなたの時間も私のもの……」 外連味たっぷりに、咲夜は顔の前でマチェットを交差させて、引いた。金属の擦れ合う耳障りな音を立てて、火花が散る。 「小悪魔さーどに勝ち目は、ない」 咲夜が一足飛びに跳ねた。立ち竦むさーどへ右のマチェットを振るう。 迫るマチェットの凶光に、さーどの本能は身体の再起動と戦闘中枢の起動を命じた。命令の解読から実行は光の速さで迅速に行われ、さーどは素早く回避機動。咲夜の一撃を後ろへ跳んでかわし、さらに大きく跳んで追撃の間合いから逃れる。 「め、メイド長おちくつこぁ! これは不幸な事故こぁ! 話せば分かるこぁ!」 間合いの外へ逃れたさーどは弁明を試みるが、 「問答無用よ。大人しく散りなさい」 咲夜に取り付く島、なし。 「うわーん! わたしが何をしたって言うんだこぁー!」 「人に向かって遠距離から不意打ち」 「だからそれはここぁ姉に図られたんだこぁ!」 「だとしても一発は一発よ」 「うわあーーん!! ちくしょうこぁ! 何だってわたしがこんな目に遭わなきゃいけないんだこぁー!」 「日頃の善行が足りないのね。さ、美しく散りなさい」 「冗談じゃないこぁー!」 さーどは両腕を大きく左右に開き、 「しゅんちゃく!」 身体の正面で拳を打ち合わせた。肉と骨ではなく、鉄と鉄のぶつかる音が響く。 何時の間にか、漆黒のガントレットがさーどの両手から肘に掛けてを覆っていた。 「ばっとう!」 さらにガントレットをはめた右手を背中に回し虚空を掴んだ。そして、背中に佩いた刀を抜き放つ様に振るう。 振り抜き、身体の正面に構えられたその手には、黒く長大な鉄塊があった。 ――否、それは鉄塊ではない。 盾と成りうる広い身幅。 長身のさーどを上回る全長。 無造作に整形しただけのような無骨にして分厚い刃。 それは人の身には扱えない大きさと重さを持つ常軌を逸した大剣――『ドラゴン殺し』であった。 「当方に迎撃の用意ありこぁ! やるってんなら、やってやるこぁ!」 超重量のドラゴン殺しを持ち前の怪力で易々と構え、さーどは吠えた。 「あら、そう」 相対する咲夜は世間話の相槌でも打つように言って、さーどへ向かって歩き始めた。初めて戦う相手にも関わらず、足取りに警戒の様子はない。そのまま目算したドラゴン殺しの間合い、外縁ギリギリまで詰めて足を止めた。マチェットで斬りかかるにはやや遠いが、これ以上詰めるのはリスクが大きい。 「ならやってみなさいな。そうね……五分は保たせろ?」 嗜虐の表情を浮かべ、右手を背に、左手も体の前を通して背に。右を縦、左を横にして、逆十字を背負う様にマチェットを構える。 「五分凌いだらここぁの事は見逃してあげる。お掃除が遅れちゃうから」 「じょーとーこぁ。五分やそこらでわたしをやれるなんて思ってると痛い目見るこぁ!」 武器を手にしたためか、さーどは強気になっていた。分かりやすい娘である。 あながち根拠のない強気でもない。 さーどは紅魔館が誇る知識人、パチュリー・ノーレッジが技術の粋を凝らして作り上げた荒事用小悪魔だ。対霧雨魔理沙対フランドール・スカーレットを想定したその戦闘能力は高く、大抵の相手には引けを取らない。咲夜相手に強気に出ても不思議ではなかった。 「威勢がいいわね。その強気が何時までもつかしら?」 「五分はもたせるこぁ」 真剣な表情で言い切ったさーどに、咲夜は小さく噴き出した。 「ぷっ……ふ、ふふふ……。面白いわねあなた」 「こぁ? 何も面白いコトなんて言ってないこぁ」 さーどはきょとんとして小首を傾げた。 「そうね。かもしれないわね」 咲夜は苦笑して、マチェットを構える腕に力を込めた。同時に身体を捻り、溜めを作る。細くしなやかな腕と身体が弓弦のように引き絞られていく。 対するさーどは正面に構えていたドラゴン殺しを寝かせ、そのまま身体の右に引いて横へ構え直す。横薙ぎの一閃で迎撃するつもりらしい。 「さて、見せてもらいましょうか。図書館の新型小悪魔の性能とやらを!」 「目に物見せてやるこぁ。かくごかんりょうこぁ!」 矢の如き勢いで咲夜が疾り、打ち払うべくさーどが大剣を振るう。 剣戟が散り、火花が咲いた。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ――レミリア・スカーレット曰く、「パチェは器用だなぁ」 紅魔館最上階、当主の寝室。 広々として窓の少ないその部屋は殺風景とは真逆をいっていた。凝った内装に数々の調度品。どれも見ただけで一級品と分かるような品々が見栄え良く配置され、部屋を飾り立てている。一級の内装と調度品、そして完璧な配置。それらが相まって、室内に高貴な雰囲気を漂わせていた。 ――明かりが点けば。 部屋の主にして紅魔館当主、レミリア・スカーレットが就寝中のために、寝室は暗闇に占められていた。 少ない窓は例外なく分厚いカーテンで閉ざされ、照明器具は一つとして灯っていない。 暗闇が支配する今の寝室は物音一つせず、地下墓所のような雰囲気が漂っている。――不死者の寝室としては正しいのかもしれない。 レミリアは吸血鬼らしく日没後に目を覚ました。 広く大きなベッドから身体を起こし、くわぁ、と大きくあくびを一つ。固まった身体を伸ばしてほぐし、ぼやける視界に目蓋を擦った。 パチパチと目を瞬いて、あくびをもう一つ。シーツから抜け出してベッドの縁に腰掛け、低い室温でぼんやりとした眠気を追い払う。 「ん〜……」 人前に出られる程度に覚醒したところでレミリアは従者の名を呼んだ。 「咲夜ー。咲夜ー」 「おはようございます、お嬢様。お呼びですか」 何時の間に、どこから入ってきたのか。一瞬前まで誰もいなかったはずのベッドサイドに忽然と十六夜咲夜が姿を現していた。同時に閉ざされていたカーテンが全て開かれ、窓から星と月の明かりを招き入れていた。時をかけるメイドの本領発揮である。 『どうやって呼ばれた事を知るのか』という疑問は何度となく生じたが、レミリアは「便利だから」の一言で済ませていた。幻想郷には不思議がいっぱいなのだ。 「おはよう咲夜。身支度をお願い」 慣れた様子でレミリアは咲夜に仕事を言いつけた。 「かしこまりました。――失礼します」 断りを入れ、咲夜は蒸しタオルでレミリアの顔を丁寧に拭いた。じんわりと沁みてくる暖かさが心地よい。 拭き終えた咲夜はいずこかへと蒸しタオルをしまい、レミリアの寝巻きに手を掛けた。慣れた手つきでボタンを外し、衣服を脱がせていく。下着までも脱がされ、肌が露にされるのを感じながらレミリアは小さく鼻を鳴らした。嗅ぎなれた芳香と嗅ぎなれない香りが漂っている。 吸血鬼の嗅覚で探るまでもなく、香りの元は咲夜だった。 「……いい香りね」 新たな蒸しタオルをどこからとなく取り出し、寝汗を拭く咲夜に声を掛ける。 「わかりますか」 手を止めることなく咲夜は相槌を打った。 「ええ」 「香水を変えてみたのですが」 「みたいね。前のもよかったけど、こっちも悪くないわ」 「ありがとうございます」 「――それでどこを怪我したのかしら?」 一瞬、咲夜の手が止まった。 「……えぇと」 咲夜はバツが悪そうに言葉を濁す。 「香水を変えたのは血の臭いを誤魔化すため? 無駄よ」 「無駄ですか」 跪いてふくらはぎから足首を拭く咲夜に、レミリアはくつくつと笑んだ。 「そうよ。吸血鬼が血の臭いを嗅ぎ分けられなくてどうするの」 「ごもっともですわ」 身体を拭き終え、咲夜は続いて服を着せようとしたが、レミリアが待ったをかけた。 「どこを怪我したのか見せてちょうだい」 目を細め、からかうような笑みを浮かべてレミリアは言った。 「左脚、腿の外側を少々」 せめてもの抵抗に咲夜は口頭で負傷箇所を説明する。咲夜の答えに、レミリアはその笑みを嗜虐的なものへと変えた。 「咲夜ぁ。私は見せてと言ったのよ」 「お断りしますわ、お嬢様」 よそ行きの笑みを浮かべて咲夜。 「咲夜ぁ……」 「嫌です」 「咲夜ぁ……」 「ダメです」 「咲夜ぁ……」 「拒否です」 猫なで声で再三再四の要求をにべなく退けながら、咲夜はレミリアに靴下を履かせた。 「咲夜」 むっとした表情でレミリアは咲夜の鼻先に右手の人差し指を突きつけた。 「ならこう言うわ。――見せろ」 「……命令ですか?」 「そうよ、命令。お願いしても聞いてくれないから命令よ」 咲夜は小さくため息をつき、立ち上がった。 「命令では仕方ありませんね」 「そうそう。仕方ないのよ」 クスクスと楽しげに笑う幼い主に肩を竦めて、咲夜は短いスカートの裾を僅かにたくし上げた。 露出を増した魅惑の脚線に白い包帯が巻かれている。左脚、腿の外側。そこが嗅ぎなれた芳香の発生源。 レミリアは右手を伸ばし、無遠慮に包帯の巻かれた脚に触れた。 「っ……!」 傷口から走った痛みに咲夜が震える。ガーゼの上に少々きつめに包帯を巻いて止血している傷である。軽傷の部類ではあるが、無遠慮に触られて痛くない傷でもない。 「ふぅん……。どうしたの、これ?」 問いながらレミリアは包帯越しに傷口を探るように指を這わせる。 「図書館の、小悪魔に、少々……っ」 傷口に触れられる痛みに表情を歪ませ、言葉を途切れさせながら咲夜は答えた。 「小悪魔に? アレにそんな力はあったかな……?」 「最近、パチュリー様が作った、さーど……っ、ですわ」 考える仕草をしながらレミリアはなおも咲夜の傷に触れる。その動きは最早探るというより嫐るだ。容赦のないレミリアの所業に咲夜の傷口が開き、血が湧き出す。 「ふん……。咲夜に手傷を負わせる程度の力があるのか」 ガーゼから包帯にまで染み出してきた赤が付いた指先をちろりと舐め、レミリアは爪を一閃した。切断された包帯とガーゼが床に落ち、赤く彩られた傷が露にされる。 「レミリアお嬢様……」 咲夜の声に込められた色を踏み躙り、レミリアは傷口に爪を立てた。 身体に異物が押し入り、切り裂いていく感覚。 爪が傷を開いていくごとに血が溢れて流れ、痛みが咲夜を苛む。 身を戦慄かせ、声を噛み殺して咲夜は啼いた。だがそれでもスカートの裾をくしゃりと握り、たくし上げたまま、毅然と立ち続ける。 横一線に走った傷の始まりから終わりまでを暴き、レミリアは爪を抜いた。爪の痛みから解放され、咲夜が荒く息を吐く。 くつくつと薄く笑い、レミリアは身を乗り出して血の流れる傷に口付けた。ふつふつと溢れる命のエキスを舐め、喉へ流し込む。 「あ……」 腿に触れた暖かく濡れた感覚に咲夜は声を零した。 レミリアは両手を伸ばし、咲夜の脚を抱き寄せるようにして血を飲む。 ミルクを前にした子犬のように傷口を舐めるレミリア。ぴちゃぴちゃと濡れた音。傷から沁みてくる痛みと、それだけではない感覚。 「く、ぅ……」 咲夜は小さく声を漏らした。膝が震え、崩れそうになる。 「楽にしていいわよ、咲夜」 「は……い……」 主からの許しに従者はスカートから手を離し、目の前のベッドに両手を突いた。たくし上げていた青い布地がレミリアの頭に掛かる。 「夕食は作らなくていいわ。今日は咲夜で済ませるから」 スカートの傘の下、レミリアは楽しげに言った。 「うん。まあね、さーどに全部任せたのはちょっと悪かったなぁーって思ってるよ? でもね、それも妹を成長させてあげようっていうお姉ちゃんの心配くばりってやつだったんだよ。だからね。……ごめん。謝るから両腕離して。これ以上曲げられたら折れちゃうから」 愛想笑いで説得を試みるも通じず、ここぁは神妙そうに謝った。 「さーど、離さなくていいですよ。というか折っちゃってもいいです」 だが許さぬとばかりにこぁは言い放った。 「こぁ」 さーどは首肯した。その額と左頬、首筋には絆創膏が貼られている。咲夜との戦闘で負った傷だ。ちなみに十二分間戦って痛み分けに持ち込んだ。頑強な身体と守りの魔法が掛けられた鎧じみたローブのおかげである。 夕食後の紅魔館地下大図書館。 咲夜の一件で、ここぁがこぁとさーどに吊るし上げられていた。こぁを正面に背後にさーど。さーどには両腕の関節を極められるというおまけつきだ。 図書館の主であるパチュリーは離れたテーブルでその光景を時折伺いつつ、紅茶を傍らに本を読んでいた。 「ここぁ……なんでこの微妙な時期にそんな咲夜さんの心象が悪くなるようなマネを……」 「そこに咲夜んが居たから」 山男のような答えを返した妹の頬を姉は左右に引っ張った。 「ひふぁいひふぁいひふぁい」 縦々横々丸書いてちょん。 「なんでわたしを巻き込んだこぁー?」 「そこにカモ、じゃないさーどが居たから」 ふざけた答えを返した姉の腕を妹はより曲がってはいけない方向へ曲げた。 「いだ! あだだだだ! 折れる折れる折れるっつーかもげる! もげちゃう!」 「もげちゃえこぁー」 みしみしと異音を立てるここぁの両腕。 「さーど、さーど。もいじゃダメです」 「こぁ」 さーどの拘束が緩み、ここぁは「くはぁ」と息をついた。 「こ、こぁ姉……」 「もぐと治すのが大変ですから。折るのならオッケーです」 「こぁー」 「ちょ、こぁ姉ひど……あ、こらさーどおまやめあがだだだだだだ!!」 頭一つ分大きい妹に両腕を絞められ、ここぁは悲鳴を上げた。 「ギブギブギブギブ! おねーちゃんが悪かったぁ!」 ぴー、と泣きながら謝るここぁに、さーどは拘束を緩めようか維持しようか悩み、視線を感じてこぁを見た。二人の目が合う。 ――緩めるこぁ? ――まだまだです。もっと泣かせないと。 ――こぁー。 アイコンタクトで意思疎通を交わし、さーどは拘束を強めた。 「いぎぃッ!」 さらに拘束を強めるだけに留まらず、さーどはここぁを爪先立ちになるまで吊り上げた。負荷に自重が上乗せされここぁの両肘と肩が激痛という形で限界を訴える。 「ぐあがあぎういぎぎぎぎぎぎ!!」 素の悲鳴にこぁが笑む。うん。やっぱりたまにはお灸を据えないとダメだ。この娘には特に。 「さーど、あと二センチアップです」 「こぁ姉、ここぁ姉の腕折れちゃうこぁ」 「二センチなら大丈夫ですよ。それに折れちゃってもそれはそれです。手痛い教訓ですよ」 「こぁ。それなら……」 ひ、とここぁの喉が鳴る。さーどは両腕に力を込め、さらにここぁを吊り上げ――。 左側頭部に氷塊がぶち当たった。 頭部への強烈な一撃がさーどの脳を揺さぶった。両腕の拘束が緩み、ここぁが開放されて床に落ちる。たたらを踏みながらもさーどは転倒はこらえた。 こぁ、ここぁ、さーど、パチュリー。その場にいた四者は例外なく氷塊の飛んできた方へ視線を向けた。 「こーこーあぁー! てんめえぇぇ!!」 湖上の氷精、チルノがそこに居た。両手と両足には鉄の輪、首には革の首輪と千切れた鎖を着けている。 「拘束、引きちぎったのね……」 跪いた格好で痛む両肩と腕をさすりながらここぁは言った。 咲夜から逃れたここぁはチルノを隠し部屋に運び込んで、手錠と足枷を使って四肢を拘束、さらに首輪と鎖で部屋に繋ぎ止めていた。所謂拉致監禁である。 夕食後に吊るし上げられなければ部屋から連れ出してさーどと遊ばせるつもりだったのだが――。 「いきなり何しやがるこぁーっ!」 そんな思惑など露知らず、ドタマに氷塊をぶち当てられたさーどはチルノに向かっていった。「吶喊!」とばかりに突っ込んで行き、とび蹴りを皮切りに猛然と格闘を仕掛けていく。対するチルノは頭一つ違う体躯でありながら、果敢に応戦。大半をかわし、時に防御しつつ反撃する。 「……ま、丁度いいっちゃ丁度いいやね」 二人のじゃれ合い(というには些か血の気が多い)を見てここぁは言った。 「なに一人でしたり顔してるんですか。なんでチルノちゃんがここに居るんですか?」 目の前から腕組みで見下ろしてくるこぁにここぁは取り繕うような笑みを浮かべた。 「あ、あは、あは、あははは、かくかくしかじか」 ここぁを引き起こして複雑に手足を絡みつかせ、こぁはため息をついた。 「諸悪の根源ですね貴女は」 「いたいいたいこぁ姉いたい卍固めやめて卍固め」 「咲夜との交戦でのダメージは動きからはあまり見られないわね。ふむ……防御が上手くなってるってことかしら」 こぁとここぁはいつものこと、と捨て置いて、パチュリーは広い上空へと戦いの場を移したチルノVSさーどを観戦していた。 チルノは積極的に格闘戦を挑んでくるさーどに、氷弾で応戦した。ここぁを氷漬けにしたアイスショットガンをぶっ放し、さらに大型の氷柱を撃ち放つ。 当たれば凍結をもたらす氷弾と威力に優れた氷柱を相手に、両手に黒金のガントレットを着けたさーどは真っ向から挑んだ。 アイスショットガンを両腕で防御、被弾。ガントレットの表面が氷結し、腕の動きを阻害する。だがさーどは続く氷柱を凍った腕で打ち払って、ガントレットに張り付いた氷を砕き割った。氷結解放。 「で、でたらめー!」 「しるかこぁーっ!」 驚くチルノへさーどは振り被った拳を繰り出す。チルノは大振りな右を辛うじてかわし、 「ぐ!」 続く左を喰らった。氷精が胸の真ん中に小悪魔の拳が突き立つ。 ――だが 「んがっ?」 同時にさーどの頭にはチルノの蹴り足が入っていた。体格差より生じるリーチの差をカバーした蹴りの一撃。相打ちにこそなったが、見事なカウンターであった。 しかし、ダメージはチルノの方が大きい。完全に成功しなかったカウンターでは体重とパワーの差までは覆せない。 さーどの拳にチルノは強かに吹き飛ばされた。 「がっは……! ぐ、う……!」 馬鹿力の拳を叩き込まれながらも、チルノは墜ちることなく耐えた。薄い胸を押さえ、涙目でさーどを睨む。 「まずはいっぱつ。さっきのおかえしこぁー……ってはずがまた一発もらっちったこぁ」 笑って言い、さーどは拳を合わせてガンガンとガントレットを打ち鳴らした。頭部への蹴りがまるで効いた様子がない。チルノの蹴りが軽かったのか、それともさーどが頑丈なのか。 「次はカウンターなんてさせねーこぁ」 「こなくそぉ……。調子にのんなあ!」 チルノは懐中から一枚のカードを抜き出した。いうまでもない。スペルカードである。 「凍えろデカブツ! 雪符「ダイアモンド……」 発動させようとしたその瞬間、弾丸の如き速度で飛んできた何かが鉄槌のようにチルノを殴りつけた。 横合いからの奇襲に不意を打たれチルノはまともに喰らった。思い切りふっ飛ばされ、体勢を立て直す間もなく、弾丸のスピードで床に激突。二度跳ねて七度転がり……動かなくなった。身体だけでなく意識まで吹き飛ばされたらしい。 「こ、こぁ?」 突然目の前に現れた何か、もとい乱入者にさーどは身構える。『敵の敵は味方』ではなく『敵ではないが味方でもない。なら敵だ』というのがさーどの敵味方判別だ。 チルノと同じか、やや小さい程度の乱入者が入れ替わりにさーどと相対する。 「……誰こぁ?」 「あら、聞かなければ分からないの?」 乱入者は嘲るような口調で返した。 それならば、とさーどは乱入者の姿をキーに錬成時に刷り込まれた情報の中を検索する。 背中に大きな蝙蝠の羽。幼く、されど高貴なお嬢様然とした雰囲気。そして、紅い妖気。 ――該当者一名。 「えと、レミリアお嬢さま……こぁ?」 “紅魔館で最も敵に回してはいけない相手そのいち”――紅魔館当主、レミリア・スカーレットその人である。 「正解。じゃあ次。私が何をしにきたと思う?」 宙に浮いたまま椅子に座るような格好で脚を組みレミリアは問いかける。 「こぁ……」 首を傾げて考えるが、さーどには分からない。 「教えてやろうか?」 薄く笑みを浮かべるレミリア。その顔につむじ風が浴びせられた。 風に目を細めたレミリアは、自分とさーどの間に忽然と現れた馬鹿げた大きさの鉄塊じみた大剣を見た。 さーどがドラゴン殺しを抜刀して構えたのだ。つむじ風はドラゴン殺しの抜刀によって起こされたものだった。 「こ、こぁ? え、あれ? なんでわたし抜刀してるこぁ?」 抜いた本人のさーどは驚き、目をぱちくりさせている。 「ふん……分かってるじゃないか」 その様にレミリアが笑みを深める。禍々しく、夜の王に相応しき恐ろしい笑み。じわりと紅い妖気が溢れ、場の空気を塗り替えていく。 「こ、こぁー……」 さーどはレミリアの秘めた闘争心を感じ取り、無意識のうちに抜刀して備えたのだ。 「じゃあ始めよう」 不穏な空気が立ち込める中、紅い悪魔が笑う。 「え? あ? あえぇ?」 身体は分かっているが頭が分かっていない。 さーどがその状態でレミリアの初撃を防ぐ事が出来たのは、パチュリーが技の粋をこらした戦闘小悪魔だからだろう。 反射的に盾にしたドラゴン殺しへ、跳ねるようにして襲いかかったレミリアの紅い右拳が叩き込まれた。鉄に生身が挑んだとは思えない硬質の大音響。ドラゴン殺しがなければ、さーどは胸を穿たれていただろう。 「く……!」 柄を握る右、剣身に添えた左、両の手に走った衝撃にさーどが呻く。 「見せてもらおうか。三人目の小悪魔の実力とやらを!」 言いながらレミリアは右手に力を込めた。力任せに圧倒するつもりだ。押し込まれ、さーどの腕がみしりと鳴る。 幼い少女の姿をしていてもレミリアは吸血鬼だ。その腕力は凄まじい。片手で大木を持ち上げる、素手で人間を引き裂くなどと言われる程に。 「くの……!」 さーども対抗するべく両腕に力を込めた。押し込まれた分を押し返す。 レミリアが吸血鬼なら、さーどは賢者が対吸血鬼も想定して作った錬成悪魔だ。ハイドラを材料に用いたその力は吸血鬼と同等かそれ以上。 紅い拳と黒い大剣が鍔迫り合う。勝負は拮抗――いや、さーどが押している。腕力が同等であるならば、右のみのレミリアより両手のさーどが勝るのは当然といえた。 「やるっていうならぁ!」 左肘を引いてタメを作り、さーどはドラゴン殺しを一気に押し込んだ。連動させて右手を振るい横一線に薙ぎ払う。 一瞬早く下がったレミリアの鼻先を大剣の切っ先が掠めた。後退が遅いか、距離が短ければ頭を薙がれていただろう。 「やってやるこぁ!」 “紅魔館で最も敵に回してはいけない相手”だろうがなんだろうが、敵として向かってくるのならさーどには関係ない。 ぶちのめすだけである。 思考を戦闘モードに切り替え、翼を広げてさーどはレミリアと交戦を開始した。 「……レミィも物好きね」 チルノに代わってさーどと空中戦を繰り広げる親友を見上げつつパチュリーはつぶやいた。 視線の先では赤を纏った影と青を纏った影が激しくぶつかり合っている。 「『咲夜に手傷を負わせたさーどの力を確かめてみたい』なんて」 「そこでOKサインを出す辺りパチュリー様も相当ですよね」 と、パチュリーの後方に控えて同じく空中戦を見つつこぁ。 「だって試したいじゃない。対魔理沙、対妹様を想定して錬成したあの子がレミィとどの程度やり合えるのか」 「その結果壊れちゃったらどうするんです?」 「頭と心臓が無事なら腕によりをかけて復元するわよ」 「…………」 こぁはなんともいえない表情をした。 そこへずるずるとチルノを引き摺ってここぁがやってきた。うつ伏せ状態のチルノは死んだように動かない。動いていない。 「こぁ姉、チルノどうしよっか? てゆーか飼ってもいい?」 「元居た場所に帰してきなさい」 犬猫扱いである。ちなみに妖精はキャッチアンドリリースがマナーだ。 「えーいいじゃん氷精一匹ぐらいー」 「ダメです。うちには大喰らいがもういるんです。これ以上猫一匹養えません」 「こぁ姉ぇ……」 「――大人しく戻してくるのと痛い目に遭ってから戻してくるのどっちがいいですか」 こぁはにこやかに言った。どうやらあまり機嫌がよろしくないらしい。 「わかったよ戻してくるよ。…………こぁ姉のケチ」 こぁに顔を背け、ここぁは小声で毒づいた。仲の良い姉妹だが、こんな日もある。 「耳か鼻か?」 「うそですじょうだんですごめんなさい」 短い言葉だが、意思疎通はツーカーであった。それだけ仲が良いのだ。 「ぬるいわさーど。しかと狙いなさい」 横のやり取りは捨て置き、パチュリーは上空から目を離さず拳を握り締めて言った。 レミリアから次々に放たれる矢状の弾を、さーどは三次元機動を駆使して縦横無尽にかわす。 「射線上に乗ったからってそんなにばら撒くことねーこぁー」 錬成材料に使われたハイドラとデビルウィングがもたらす大推力と高い運動性が、さーどとレミリアの機動力を互角のものにしていた。 ――通常使い魔にここまでの性能を持たせることはまずない。 必要がないということもあるが、何よりコスト、技術の両面で難しいからだ。コストはどうにかなるとしても技術の壁が高く立ちはだかる。 さーどの高性能はその壁を乗り越えたパチュリーの技術力の高さを伺わせた。恐るべき技術力である。 矢状の弾――『ナイトダンス』をかわしながらさーどは標的をロックオン、背中の翼を大きく広げた。その翼下に六発の大きな光の矢が顕現する。 小悪魔さーど愛用の飛び道具、フェニックスだ。 「ふぉっくすすりー!」 さーどは翼下のフェニックスを左から順に六発全弾発射。撃ち放たれたフェニックスはそれぞれにレミリアを追尾して飛翔する。 回避を試みたレミリアだったが、適正距離で順次六連射されたフェニックスを全て回避するのは容易なことではない。一発目より二発目、二発目より三発目――と、フェニックスはより正確にレミリアを捉えていく。 「ちぃ! サーヴァントッ!」 四発目を回避した時点で、レミリアは詰むと判断し、使い魔を喚んだ。 五発目を辛くも回避し、直撃コースに入った六発目へナイトダンスと四基の使い魔による応射を掛ける。 フェニックスは弾幕を浴びてレミリアとさーどの中間で破壊された。――が、マジックナパームを模したフェニックスはオリジナル同様に爆発する。 指向性を持った衝撃と魔力の破片が前方、レミリアの方へと撒き散らされた。 「くっ!」 予想外の出来事にレミリアは背中の羽で身を庇った。フェニックスの爆発が羽を叩く。距離が離れていたこともあって、レミリアにダメージなし。 「こざかしい真似を!」 手に魔力を収束させ、強烈な一撃を返そうとするレミリアの身に、「こぉーあはんまーっ!」トゲの生えた鉄球が叩きつけられた。 羽がレミリアの視界を遮ったスキに接近し、さーどが左手に携えた質量武器『小悪魔ハンマー』を振るったのだ。 「ぐぁは……ッ!?」 レミリアが羽の守りごと吹き飛ばされる。小悪魔ハンマーの衝撃は防御を突き抜けてレミリアを揺さぶった。脳なんてものが必要なのは人間だけ、とかつてレミリアは言ったが、吸血鬼にも脳は必要らしい。必要ないのならなぜこんなに視界がぐらつくのか。ふらつくのか。浸透してきた衝撃が原因に他ならないが、ならばそれに揺さぶられたものはなんなのか。 レミリアは翼を開いてエアブレーキを掛け、宙に踏み留まる。 「そーれもういっちょお!」 そこへさーどの追撃が繰り出された。頭上で振り回し、遠心力を上乗せした鉄球がレミリアへと伸びる。レミリアは歪む視界の中を迫る鉄球を視認。 「なんの……っ!」 脱力した右手を開き、捻りを加えて背後へ伸ばし、タイミングを計る。 ――三、二、一、今! 「らせん!」 レミリアは弓を射るが如く捻りを解放。右手は弧を描き、どんぴしゃり。眼前に迫ったハンマーを打った。 ハンマーは軌道を変えられレミリアの左を抜け、その背後で内側より炸裂。さらに破片の一つに至るまで砂塵の如く崩壊。 「こ、こぁ!? ハンマーがサテツになっちゃったこぁ!」 得物を粉砕された驚きでさーどに隙が生じる。視界の異常が回復したレミリアはここぞとばかり反撃に転じた。 「そっちがハンマーなら、こっちのお返しは――」 高速移動でさーどとの間合いを急速に詰め、さらに翼を変形させスライディング気味に突撃する。 「レミリアードリルッ!」 「こあぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」 さーどは咄嗟に身体を捻って回避しようとするが、完全には避けられなかった。 レミリアドリルは回避が間に合わなかったさーどの腹から左脇にかけてを掘削して抜ける。 黒いローブが千切れて舞い、下のビスチェが削られ、さーどの腹部を露にした。締まった腰周りと、小さな臍が外へ覗く。 「こぁうッ!?」 さーどは顔を赤らめて外気に晒された腹を左腕で隠した。 反撃の失敗にレミリアは舌打ちする。肌を暴いたがダメージは与えられていない。 「ええい。いい加減に仕留めないと私の沽券に関わるな」 苛立たしげに言ってレミリアは翼の変形を解除。さーどとの距離を離しに掛かった。 突入角七十五度で急降下。高度を落とし、急降下で得た速度を活かして、床スレスレを高速で飛翔する。チラリと背後を伺い、さーどとの距離を確認。 さーどはレミリアの後をなぞるように追ってきていた。暴かれた肌を左腕で隠して追ってくるその速度は、遅くないが速いとも言えない。おかげでレミリアは早々に必要な距離を稼ぐ事に成功した。 飛行をやめて、レミリアは足を下ろす。慣性で床を滑り削ってブレーキを掛け、着陸。 その場で振り返り、向かってくるさーどと正面から相対する。計算通り距離は充分にあった。 「グングニルはお前には勿体無い」 レミリアは魔力を集束させ、イメージの通りに形成していく。集束は一秒未満。形成は一秒以下。レミリアの右手に紅く長大な槍が顕現した。 「小悪魔相手ならこっちで充分だ」 レミリアは槍を振り被った。レミリアの手から離れた瞬間から、槍は真の意味で必殺の『ハートブレイク』となる。 「――これで終わり」 今まさに投擲されるその瞬間。 「させるかこぁ!」 さーどの投げつけた鎖がレミリアの右手に絡みついた。小悪魔ハンマーの成れの果てであるその鎖は、巻き付き、紅い槍と右手を縛り繋げる。 これでは投擲できない。――槍が必殺とならない。 ドラゴン殺しを両手で構え背中に振り被って、さーどが突っ込んでくる。 黒いその剣身は薄赤い光を帯びていた。魔力を宿らせて斬撃の威力を向上させているのだ。 元より何の付与もなしに必殺級の威力を持つ大剣である。それが魔力の強化を受けて振るわれればどうなるか――。 「いただくこぁこのえっち!」 「誰がえっちだこの――!」 真っ向から振り下ろされるドラゴン殺しをレミリアは紅い槍で受ける。 衝撃で図書館の床にレミリアの足がめり込んだ。 さーどの斬撃が威力に床が負けたのだ。レミリアを介して魔法図書館の床を砕くその威力、尋常ではない。 常軌を逸した超重量に魔力の上乗せ、さらに突撃の勢いを合わせたドラゴン殺しの超重斬撃。 これを受けるには、ハートブレイクでは少々足りなかった。ぴし、と音を立てて紅い槍に亀裂が走る。 分厚く重い刃はレミリアの魔力で作られた槍に挑み、さらにその向こうにいる紅い悪魔を狙う。 「こおぁぁぁぁぁぁ!」 さーどは体格差を上乗せしてレミリアを下さんとする。 させまいとレミリアは両手で槍を保持して拮抗。 ぎしぎしと音を立てて、ドラゴン殺しとハートブレイクが鍔迫り合う。 「つ・ぶ・れ・る・こ・あぁぁ!!」 さーどが体重を掛けた。体重と武器の重量が相まって、レミリアは徐々に押され始める。 「ぎ……!」 押し返せない。 さーどは身長差を活かし、圧し掛かる形で押していた。対するレミリアは持ち上げる形だ。 武器重量に体重が加えられた上にこれではパワーが互角でも返せない。 歯を食い縛り懸命に抗うレミリアに、じりじりと迫るドラゴン殺し。 薄赤く光るその刃がレミリアの肩に触れた。 その瞬間。レミリアの背より黒が伸びた。張り手のようにさーどの顔面、鼻から上を打つ。 「べ!?」 形状を変化させた羽による一撃である。 顔面を強打されさーどの目に星が散った。一時的に視界が死ぬ。さらに鍛えようの無い部位への攻撃でドラゴン殺しが緩んだ。 レミリアはドラゴン殺しの線上から身体を外しながらハートブレイクをキャンセル。紅い槍が霧散する。 「わわ!!」 競り合いの相手が突然消え、さーどは勢いのままにつんのめった。 その鳩尾へ、レミリアは居合い蹴りを突き入れた。今までの借りを返すかのように。 鳩尾を基点にさーどの長身が浮く。 交差気味に入った爪先がさーどの内臓へめり込み、脊髄にまで届いた。痛撃。 「ぐぶ……!」 さーどの口から赤いものが溢れ、手からドラゴン殺しが零れ落ちた。 レミリアは痛撃に身体を折ったさーどへ手を伸ばし。 「捕まえた」 左手で首を捕らえ、片手で持ち上げた。レミリアとしては吊り上げているつもりなのだが、身長差の関係でさーどの足が浮いていない。 「さーど。お前を小悪魔風情と侮ったのは私の間違いだったよ」 レミリアの右手が紅く光る。高密度の魔力が集い、術式の発動を待たずして世界に紅を放っていた。 「流石はパチェの作った使い魔だ。咲夜に手傷を負わせたのも頷ける。私もなかなか手こずらされた」 さーどは身動きが取れないでいた。レミリアの居合い蹴りが運動中枢の機能を麻痺させていたのだ。腕が上がらず、脚も尻尾も羽も動かない。 さーどに出来るのはレミリアを睨む事だけだった。 「だからお前には私の一端を見せてやる。――夜の女王のな」 紅い右手が露になった肌を撫で、ぴたりと胸を照準する。 「クイーン・オブ・ミッドナイト」 赤が咲いた。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ――小悪魔さーど曰く、「“紅魔館で最も敵に回してはいけない相手”……恐るべしこぁ」 三日後の紅魔館地下大図書館。 「……もふ……むぐ…………」 来客用に置かれたソファーの上に包帯で全身ぐるぐる巻きのさーどが仰向けに横たわっていた。七対三。包帯が七で生身が三といった配分でさーどは白くなっていた。実際に大怪我をしていてふざけているわけではないのだが、その光景はコメディタッチでどうにも冗談めいていた。ミイラ小悪魔さーどがソファーの前に置かれた応接テーブルに手を伸ばす。指先から二十センチ、離れた卓上に一つの球体があった。 「オレンジに負けない黄金色の果実」――蜜柑である。さーどは怪我で動かない身体で難儀して蜜柑を取ろうとしていた。「ふご……もご……」と鳴きながら。 「確かに頭と心臓が無事なら復元すると言ったけど……」 眼鏡を掛けたパチュリーがバインダーに挟んだカルテにカリカリと羽ペンで書き込みつつ言う。 紙面に描かれた人型に、赤で横線や点がいくつも記されていた。隣の欄には『両腕部損傷』『下腹部裂傷』『内臓器官損傷』、『ハイドラ出力低下』、『運動中枢損傷』などなどと箇条書きに羅列されている。ざっと見ただけで二十以上あった。 「復元レベルに至らない損傷じゃ、私の出番はないわね」 「もご……ふご……」 カルテに記述された名前は『小悪魔さーど』。包帯に巻かれたミイラと化しているそこの荒事小悪魔だった。蜜柑にはまだ手が届いていない。 「貴女は私から魔力を供給されてるわけじゃないからこういうとき面倒ね」 カリカリとさーどの状態を書き込み、日付とサインをつけてパチュリーはペンをしまった。 「再生能力を促進する能力も付与しようかしら。DG細胞だっけ? たしかそんな名前のマジックアイテムが再生能力付与の効果を持っていたような……」 ソファーではなく応接テーブルに尻を載せ、パチュリーは蜜柑を手に取った。 「むご……」 さーどが見上げる先でパチュリーは皮を剥き、房を二つに割って一つにかぶりついた。もぎゅもしゅもしゅ。 「むご……みか……もご……」 恨みがましい視線に気づく事なくパチュリーはもしゅもしゅと蜜柑を食べる。水気が多く、甘みと酸味がほどよく利いていて美味な蜜柑だった。 「魔理沙の盗癖にも困ったけど、レミィの好奇心にも困ったものね。自分がさーどより強い事なんて考えなくてもわかるでしょうに」 『さーどがどの程度レミリアとやり合えるのか?』と好奇心から交戦許可を出した魔女が言う台詞ではない。 「……みか……ん……」 もごもごとくぐもった声を出すさーど。パチュリーは全く聞こえていないか、聞いていない様子で最後の一房を口に放り込んだ。 「もご……」 「とっとと治して仕事に復帰してちょうだい。エリアB7Rに湧いた毛玉群の処理、こぁとここぁじゃちょっと手こずりそうなのよ」 蜜柑の皮をさーどの頭にぺちょ、と載せてパチュリーは去っていった。 「…………」 さーどは憮然とした面持ちで頭に載せられた蜜柑の皮を見て、「もご」と鳴いた。 不貞寝を決め込み、目蓋を閉じる。ゆるゆると意識を沈めようとしたところにキッチンワゴンを押した二つの人影がやってきた。人影よりもワゴンから漂ってくる匂いでさーどが覚醒する。 「むご……」 人影はそれぞれ小悪魔こぁと子悪魔ここぁだった。 「さーどー。ご飯ですよー。部屋で一人は寂しいって妹のためにお姉ちゃんがご飯を食べさせてあげますよー。ほらあーんして。あーん」 そう言ってここぁはワゴンから取り上げた茶碗からスプーンでおかゆを掬い取ってさーどの鼻先に突き出した。 「ここぁ、その前に包帯を解きなさい包帯を」 ワゴンから応接テーブルへ配膳をしつつ、こぁが言う。三人分の食器があるところを見ると、二人もここで食べるつもりらしい。 「その前にまずは起こすところからだねぇ。ほれほれお姉ちゃんのありがたみを存分に感じるがよいよいよい」 怪我の原因の何割かを担った者の台詞ではない。やれやれ、とこぁは苦笑した。 ここぁに身体を起こされ、口元の包帯を解かれてさーどは、ようやく口なしから開放された。 「こぁ姉、ここぁ姉」 「はい?」 「なになに?」 「――なんで看護婦の格好こぁ?」 そして、二人を見てから疑問に思っていたことを口にした。 ぱちぱちと目を瞬かせ、顔を見合わせるこぁとここぁ。二人は白衣を着て、頭にはナースキャップを載せていた。黒衣の悪魔が白衣の天使に変わっている。翼以外。 「今日は司書仕事はお休みなんです」と、こぁ。 「で、怪我人の世話をするわけだから」と、ここぁ。 「「今日の仕事は看護婦です」」とにっこり笑って姉二人。 「こぁ」とさーどが鳴いた。 |